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月と季節の暦
志賀勝から一言
(2009年3月20日)

今回の更新では、西行、菅江真澄、柿本人麻呂、子規や虚子について取り上げています。やや長めですが、どうぞお付き合いください。

西行忌と今年のサクラ

福岡からサクラ開花の便りが早くも届いて(3月13日)、その後も続々各地の開花が伝えられています。ウメの早咲きとともに今年の温暖異常は大変なものです。

如月満月(3月11日)に「月の学校」と称して菅江真澄の勉強会を開きましたが、翌12日は西行の死の如月十六日に当たる日という話が出ました。例の「花のしたにて春死なん」の和歌ですが、月暦と西暦をひと月遅れと大雑把に理解している人には如月の満月はサクラの季節には早すぎる、という意見がよくありました。月暦を正確に理解していないからそういう疑問が生ずるということで、如月満月とサクラの時季である西暦3月末〜4月上旬以降は重なることがあることを『月的生活』でまとめたことがありました。

こういう論議も意味がなくなるような今年の異常気象。サクラが福岡で開花したという3月13日は如月十七日のことですから、西行が目指した「花と月」、さらにはブッダの涅槃を意識した死の旅路は、ごく普通のことになってしまいます。

ところで、月暦二月如月は別名梅見月ですが、西暦2月を梅見月と紹介している「天声人語」を目にしました(2月22日付)。異常な早咲きの今年のウメでしたから、なるほど2月が梅見の月になってしまった今年。人間の錯誤に歩調を合わせて、当の季節自身も狂ってきたのでしょうか(!?)。

菅江真澄「わがこころ」

「月の学校」の如月満月は十五夜でしたが、前後の待宵、十六夜もそれぞれ個性的な月に恵まれました。菅江真澄の初期の日記「わがこころ」(原文は、「わかこゝろ」、『真澄遊覧記』や『菅江真澄全集』第一巻に収録されている)を20人ばかりの会員が読んで勉強しました。仲秋名月をはさむ待宵から居待ちにかけての5日間、姨捨の月を見ようと旅した記録がこの文。文字通り月尽くしの一文で、月好きの方には是非読んでいただきたいものですが、仲秋の名月に徹夜して対するという一事をもってしても、私たちのような一時の観月で事足れりとする対し方と違い、月と人生が一体化した態度に驚かされます。

人麻呂の「冬猟歌」と月暦

西行、菅江真澄ときて次は柿本人麻呂。「東の野に炎(かぎろひ)の立つ見えてかへり見すれば月かたぶきぬ」は名高い歌で、私たちは広々とした野に出現する太陽と落ちていく月の壮大な光景を目の当たり想像するばかりですが、そういう見方は誤っていること、これは「古今叙景の名歌」ではないと指摘したのは白川静でした。長歌一首とこの歌を含む短歌四首からなる安騎野(あきの)の冬猟歌を古代の呪歌として提示した(『初期万葉論』1979年)その論は、漢字の成り立ちをシャーマニズム的世界の中で解明した労作の延長に古代歌謡を論じたもので、傾聴すべきものでした。

白川はこの「東に曙光が立ち、西に月かげが傾くま冬の払暁の光景」の歌が成立する日付として、「陰暦十一月十七日、太陽暦では西暦692年(持統6年)十二月三十一日の午前五時五十分頃」と考えられるとした東京天文台(当時、現在は国立天文台)の見解を引用しています。

この情報について立ち入って調べてみましょう。西暦12月31日ですと月暦では十一月十六日、1月1日が十七日に当たっていて東京天文台の換算とは違いますが、692年という年そのものが実に面白い年なのです。というのは、今年と同じで閏五月が入った年で、月暦十一月十七日もまた西暦1月1日のことで、今年とまったく同じリズムの時間が流れた年だったのでした。この偶然にはおどろきました。

月の出・南中・月の入り(東京、中央標準時)
月暦日次 西暦日次 月の出 南中 月の入り
十一月十五日 12月30日 14:50 22:28 翌6:06
十六日 31日 15:57 23:33 翌7:03
十七日 1月1日 17:11 翌0:36 翌7:52
十八日 2日 18:27 翌1:35 翌8:33
(「月暦手帳 2009年版」から抜粋)
今年の暦のデータを使って、月の入り時刻を確かめてみましょう。西暦12月31日ですと、月の入りは6時6分、1月1日は7時3分ですから、月と太陽の共存という点で考えると1月1日早朝というのがふさわしいかもしれません。十六夜の月が夜空を運行し、有明の月となって朝方に落ちるタイミングということになります。1月2日の月の入りは7時52分ですから、十七夜の月が落ちていくこの2日の日も可能性としては考えられますし、十八夜(1月3日、月の入りは8時33分)でも欠け気味だとはいうものの月は十分に円く、候補としてあり得るでしょう(この辺りの、いち日の基点・終点に関わるややこしくはあるが興味深い問題については私の「月の三部作」を参照してください)。いずれにせよ十一月十七日説の一人歩きは考えものです。

次に太陽についてですが、先に特定された「5時50分頃」というのは大いに問題です。日の出は1月1日前後は6時50分。5時50分からは1時間の開きがあり、「かぎろひ」という言葉をどう理解するかという未解決の問題があるものの、この時間では地平がぼんやり明るみはじめるばかりの時ですから、もう少し遅い時刻というべきでしょう。

さらなる疑問

人麻呂の歌がいつ成ったかについて点検してきたのは、奈良の宇陀市で月暦十一月十七日に「かぎろひを観る会」が現に行なわれていて気になっていたからということもありますが、直接のきっかけは横浜の〈月〉の会会員の方が関連する資料を送ってくれたからでした。

それは松岡正剛さんの『白川静−漢字の世界観−』で、以上に述べてきた十一月十七日説とそれに基づいた白川の立論を『初期万葉論』中もっとも衝撃をうけたものとして紹介しています。

月暦十一月は冬至を含む月。人麻呂が安騎野の冬猟歌を作ったときのシチュエーションである冬猟と旅宿りは、天皇霊の受霊のために行なわれた、とする白川は、「一年のうち、最も夜の長い日の夜明けに、自然暦の上における生と死との転換、生命の授受が行なわれる」として、中国渡来の陰陽交会の冬至重視の思想がこの冬猟の背景だったとみなしています。

朔旦冬至が重視されたように、日本でも冬至思想は重要なものとして受け入れられたことは間違いなく、冬猟の意義はここにあったとする指摘も無視できません。しかし、どうでしょうか。十一月十七日は冬至その日ではありません。今冬至を12月21日とすれば月暦では十一月六日に当たり、その間九日の差があります。この差を埋めてくれる強力な論拠が発見されるといいのですが。

松岡さんの本ですが、「特定の一日」としての692年十二月三一日を紹介したあとに「少なくともその一週間前後のことだろうといいます」の一文が加えられています。この一週間前後のことは白川の本にないものですが(私は初出の中央公論社刊『初期万葉論』しか見ていません。別な文献に記載があるのでしょうか?)、これだけの幅で日時を捉えてしまうと月の形状も月の入り時刻を考えることも意味を失い、太陽と月を東西に配した歌が損なわれてしまうことになりますが、いかがなものでしょう。

正岡子規の命日

十七夜の月で思い出しましたが、最近稲畑汀子さんの子規と虚子についての文で、「子規逝くや十七日の月明に」という虚子の句を目にしました。十七日の月明が気になり、少しだけ調べたら、正岡子規が亡くなったのは1902年9月19日、月暦では八月十八日で、十七夜の月が残っているときのことだったのかも知れません。子規が生まれたのは1867年月暦九月のやはり十七日のことで(この月暦の日付が事典などで生まれた日として記されています)、虚子の句にはこのことも関係しているのでしょうか? きちんと調査しなければなりませんが、この辺りのことご存知の方いらっしゃればご教示ください(了)。


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