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「列島巡礼第3回・屋久島編」参加者のレポート(その2)

真矢修弘さん(東京都三鷹市)の印象記

<列島巡礼:屋久島への旅>

真矢 修弘

出航・桜島
出航・桜島
<月>の会による「シリーズ列島巡礼」と銘打たれた旅も3回目を迎え、第1回の十和田湖と北東北を巡る旅から昨年の郡上八幡と長良川を巡る中部地方の旅を経て、今回は南の果ての屋久島を訪れ、日本で46年ぶりという皆既日蝕を屋久島で見る旅が実現した。目指す屋久島も日本中の関心が集中する皆既日蝕帯にあったので、足の便や宿を確保するだけでも容易ではなかったようで、これまでのような1泊か2泊の旅からいっきに4泊の旅となった。それでも当の屋久島には2泊しかできず、行きと帰りの前後2泊は中継地点の鹿児島市で各1泊するという異例の旅であった。しかし、この機を利用して、鹿児島で<月>の会を立ち上げようと準備中の有志の方々と有意義な交流をすることができ、かつここを旅の基点とすることで旅にふくらみができ図らずも体験できたことも少なくなかった。

屋久島へは船で入った。空路なら鹿児島から30分、高速船・ジェットフォイルでなら約2時間半、通常のフェリーでも4時間で行けるところを、われわれの乗った船は貨物船に近い臨時のフェリー便らしく、なんと、屋久島まで着くのに7時間もかかった。しかし、そのおかげで、南西諸島の船の旅に特有のゆったりした旅情にひたることができ、その上、思いもかけぬことに屋久島の手前の種子島に着いたとき、約1時間の上陸が許された。突然のことなので準備とてなく港の周辺で過ごしただけではあったが、この島にも一応の足跡を印せたことはうれしかった。船着場の近くに樹齢150年と記されたガジュマルの木があったが、私がたまたま見た資料ではガジュマルの北限は屋久島だと書いてあったので、その意味では例外的なめずらしいものを見たのかもしれない。
ちなみに、私は今から10何年か前に、東京から鹿児島まで夜行列車で行き、そこから船で屋久島と種子島に渡ろうと計画したことがあったが、あいにくの天候で船が出ず、やむなく空路で石垣島経由の西表島に変更してしまったことがあり、屋久島と種子島の2つの島に船で渡ることは長い間の夢でもあった。

肝心の屋久島での皆既日蝕の観望は、すでに全国的によく知られているように、悪天候のために叶わなかった。4泊5日の旅の間、ずっと好天に恵まれていたのに、なぜかこの日のその時間帯に限って、天候がくずれ、当日の早朝は激しい雨で出かけるタイミングさえつかみかねるほどであった。私たちは、島の西部か南端の見晴らしのよい地点まで見に行く予定であったが、結局は宿をとってある北部の市内に変更した。<月>の会のメンバーの本隊は島で最も古い、由緒ある益救(やく)神社の境内に陣取ったが、私ほか計3人は海に近い河口に架かる、昭和5年建造の橋のたもとに陣取った。
幸いにして、激しかった雨もしだいに小降りになり、日蝕の始まるころまでには雨が止んで空は見上げられたが、空は雲に覆われており、太陽の位置さえ定かではなかった。ただ、皆既状態になった数分間は、あたり一帯が夕闇にとざされたように暗くなり、広い川の対岸の山々が黒々とたたずむのが見えた。水辺であるせいか山の稜線は見分けられた。鳴いていた蝉が鳴き止み、静けさとひんやりした空気が流れ、ふと気づくと、いつの間にか橋の上と周辺の街頭がいっせいに自動点灯されていて、時ならぬ夜景に変わっていたことが印象的だった。ほどなくして明るさが戻り始めたころ、海のほうから一陣の突風のような風がさっと吹きぬけ、近くの民家にあった高さ1メートルほどの鉢植えを転倒させ、遠くでガチョウかアヒルと思われる鳥たちが夜明けと思ってかうるさく鳴き騒いだ。


弥生杉
弥生杉
日蝕の前日には、島内の主な見どころを地元のベテラン・ガイドの人たちに案内してもらい、島の周囲約100キロを車で一巡し、森の一部を数時間歩き、古代杉や川や滝をいくつか見た。文字通りの清流に入り水浴や水遊びもした。さすがはと驚いたことに、屋久島の川の水はどれでもすべて飲めるということだった。
屋久島といえばすぐ引き合いに出される有名な縄文杉には、行くのに時間もかかる上に、あたかもそれだけがこの島で見るべきものとされて、そのため樹の傷みも激しく、逆にそれ以外の豊かな自然、長い歴史、島の人々の生活などにあまり注意が向けられない現状を島では憂えていると知って、今回行けなかったことがさして残念だとは思わなかった。しかし、それと矛盾するようだが、島のいたるところが観光地としてあまりにきれいに整備されていて、少し物足りなく意外な感じをもったことも事実である。それも一方で必要なことなのかと思ったけれど、私が旅のあとで読んでみた一昔前のガイドブックには「野生と神秘の島」とあり、それが私の屋久島に抱いていたイメージでもあったので、それとはかなり違う現実に戸惑った。今度行くなら違う旅のしかたをとも思った。

滞在中は2夜連続して、地元有志らによる心づくしの歓待を受けた。月の暦との縁で集まった人々であるから、みな志のある個性的な人たちで、島を愛し、自然に心を寄せ、ある者は島のガイドをし、ある者は島を代表する写真家であり、ある者は塩づくりをし、ある者は島の樹医であり、ある者はその日のために獲った数頭の鹿(ヤクシカという固有腫)の肉を鹿鍋にして振舞ってくれるなど、遠来の客に対する最大限の歓待をして私たちをもてなしてくれた。それらの人々が手を携えて、島の自然を守るためのさまざまな活動をしている様子が理解でき、救われる思いがした。そのなかのリーダー格である長井さんという人は、私がずっと昔に読んで印象深かった高田宏の『木に会う』(新潮文庫)という本の冒頭に、島在住でもう亡くなった詩人の山尾三省と3人で縄文杉の根元で一夜を明かすという感銘深い話に出てくる人だったので驚いた。私はたまたま旅に出る直前に目を通していたので記憶に残っていた。高田宏によれば、彼は当時、時計は持っていても日付は太陰暦に合わせていたと書かれていた。もう20年ほども前の話のようであるが。

日蝕が終わると、その日の午後にはふたたび海路で鹿児島に向かった。このころにはすっかり天候が回復し、すばらしい晴天のもとの輝くような海原を眺めながら潮風に吹かれ、ゆっくり進む船側に時おりイルカやトビウオが飛ぶのを見た人も多い。夕日に映えて移り変わる島影を飽かず眺めるうち、船が半島の突端にさしかかるころには暮れなずみ、行きには見えなかった開聞岳がクッキリと美しいシルエットを見せていた。
夜も更けて始まった地元鹿児島の有志肝いりの交流会は市内の奄美料理店で行われたが、ここでのとびきり美味かつ多彩な南国の味の数々にはだれもが感嘆の声をあげ、いずれ改めてこの会で南の島を訪れる日の来ることを予感しつつ旅を終えた。

(まや・のぶひろ/整体法実践家)
(写真:竹浪明)

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