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月と季節の暦
発見 月の名所
第三回 月の丹後(京都府)
――天女=トヨウカノメをめぐって――(その1)

中秋名月前夜の2012年9月29日、「仲秋待宵 月語り」の催しが開かれた。『竹取物語』をテーマとした催しで、私は「月の女神がいた!」のタイトルで講演した。講演だけではなく、文章としても残す必要を感じ、日本列島に実在を信じられた月の女神の足跡を綴ったのが以下のものである。「発見 月の名所」のタイトルで公表するのはこれで三回目で、第一回高知県幡多郡にある月山(つきやま)神社、第二回奈良県香具山に続くもの。

*   *   *

京丹後市役所を中心とした地図
丹後半島(現在の京都府京丹後市、宮津市)は月の名所である。広大なこの地域には月から降りてきた女神の神話があり、女神を祀る多数の神社が存在している。以上の、これまで未解明だったきわめて重要な事実に光を当てようと願って綴ったのが、以下の文章である。

『丹後国風土記(逸文)』にある天女神話の引用から話をはじめる――

丹後(たにはのみちのしり)の国の丹波(たには)の郡(こほり)に比治(ひじ)の里があり、比治山(ひぢやま)の頂に泉があった。真奈井(まなゐ)といった。天女(あまつをとめ)八人(やたり)降ってきて水浴びをしていた。老夫婦が来てひそかにひとりの衣裳(きもの)を隠した。この女娘(をとめ)だけが天(あめ)に帰れず、身を水に隠し愧(は)じていた。老夫婦の子になるしかなかった天女は十数年共に住んだ。天女は酒を醸(か)み造るのが上手く、その酒は一杯飲めば万の病を治すもので、その値は高価で、家は豊かになり、農耕も豊かになった。こうした働きにもかかわらず、あるとき老夫婦は自分らの子ではないのだから出ていけと天女に宣告した。天女は天(あめ)を仰いでなげき、地(つち)に伏してかなしんだ。天を仰いで歌った歌は、

天の原 ふり放け見れば 霞立ち
 家路まどひて 行方知らずも

天女はさすらい、丹波の哭木(なきき)の村では槻(つき)の木によりかかって哭(な)いたりして各地に跡を残した。最後に、竹野(たかの)の郡の奈具(なぐ)の村に留まった。これが奈具社に坐(いま)すトヨウカノメノミコト(豊宇賀能売命)である。(下線を付したところは後述)

奈具神社の狛犬と鳥居
丹後・丹波の各地をさすらったとされる天女=トヨウカノメノミコトが最後に
落ちついたとされる地に建てられ、祀られた奈具神社(京丹後市弥栄町船木)

天女はどこからやって来たのか、話ではどこにも明示されていない。ひとこと月という言葉があったら、その後の私たちの歴史観や神話観は根底から変わっていたことだろう。今、これが月の神話であることをこれから明らかにしていきたい。

まず「天の原ふり放け見れば霞立ち家路まどひて行方知らずも」の歌からはじめよう。『萬葉集』には冒頭の同じフレーズをもつ歌が収められている。「天の原振り放き見れば白真弓張りてかけたり夜道はよけむ」(No289)、というものだが、「月弓」という言葉もあるように、白真弓とは月を意味する。もう一首、「……天の原振り放け見れば照る月も満ち欠けしけり……」を含む長歌があり(No4160)、いずれも月を導く序として「天の原振り放け見れば」が用いられている。同じフレーズを使った『萬葉集』中の歌は、月の存在を意識すると理解がより深くなると思われる(例外として山部赤人の歌に太陽と月にかかる歌がある。しかしこの作品は時代が下ったものなので太陽が付加されたものと理解していいだろう)。

「天の原……」でだれもがすぐ思い出すのが阿倍仲麻呂の「天の原振り放け見れば春日なる三笠の山に出でし月かも」だろう(これは『古今集』の載るものだが、仲麻呂が唐に渡ったのは717年。このころまで「天の原……」と月が一連なりのものだったことが分かる。

以上事例を挙げてきたように、「天の原……」のフレーズが月を呼び起こし、天空の中の月を際立たせるために使われているとすれば、丹後の天女神話が月を明示的に記していないにもかかわらず、天女が求める家路、その行方とは月を意味していることは間違いない。

仲麻呂の歌について付言すると、春日山、三笠山の月はこの歌であまりにも有名になってしまい見過ごされているかもしれないが、実は『萬葉集』には春日山、三笠山に昇る月の歌が結構入っている。つまり、そこは月の名所だったのであり、そういう場所を回顧して仲麻呂が歌にしたという理解をしなければ不十分なのである(春日大社の論考については、こちらを参照=クリック

もう一点。「天の原振り放け見れば……」と歌い出さないでも、単に「天の原」とかアマ、アメという言葉でさえも月を呼び起こすために使われている例が萬葉集には数多い。この点も、萬葉時代に月がどのように存在していたのかを知るうえで欠かせない前提として知っておきたい。


天女伝説を説明する展示物
丹後の神話に戻ろう。神話には月を想定することでより理解が深まるキーワードや月を介しなくては理解が及ばない点がある。人間界で生活しはじめた天女は酒造りで頭角を現わす。それは単なる酒ではなかった。さかづきいっぱいだけで病気を治す魔力をもった酒であった。

病を癒す酒、それは不死の薬に通じている(ご存知のように百薬の長である)。月は不死そのものの体現として、人類史上共通に理解されてきた観念である。不死の薬とか病治しの薬とかいうのは、時代が下ったときに不死の観念から派生してきた観念だろう(中国での古い神話に、不死の薬を持つヒキガエル、あるいは薬を搗くウサギの話がある。日本列島で薬の話が自生的に生まれたものでないなら、これらの話が伝わってきたものだろう)。『竹取物語』の不死の薬と病治しのこの酒の話は直接接続しているのを理解するのは容易であろう。

『竹取』とつながるのはまた「豊かさ」についてである。黄金(こがね)の入った竹により翁に「豊かさ」をもたらしたかぐや姫、酒造りを通して老夫婦を「豊か」にした天女は、「豊かさ」を恵む月の力が流出したものである。これらの話を、単にだれもが好むおとぎ話的な話の筋と理解してはならない。豊穣をもたらすことができるのは月をおいてない、これが肝心の要である。

以上、月の属性といってよい不死の薬や豊饒性について触れてきたが、もう一点、天女神話が月の神話であることを示す証拠がある。それは槻の木(ケヤキの古名)の指示である。天女はなぜ他の木ではなくほかならぬ槻の木にもたれて泣いたのか。それは槻が同音の月のシンボルだったからである。天女は槻にもたれ、故郷の月をしのんだのである。槻=月については以前のHPで詳細に綴っている、参照されたい。ここでは、本論と直接関係しないが、2011年12月の報道を書き留めておく。それは、『日本書紀』に記録され、所在が分からなかった五世紀の人口池「磐余(いはれ)池」の堤跡が見つかったというもので、「磐余池辺双槻宮(いはれいけへのなみつきのみや)」(双槻とは槻の木が並んでいる意)という宮殿があったとされるのがこの池のあたり。香具山がよく見えるところだという。香具山が月の山であることはやはり以前のHPに載せた(クリック)。宮殿が「双槻宮」と名づけられた意味、そして香具山との連関が明らかで、前記HPの補足としておく(磐余そのものも月の誕生石に関わるものだとする有力な説がある)。

天の橋立
天の橋立(宮津市)。前出地図(部分)
の南東(右下)方向に位置する

さて、月の女神はトヨウカノメノミコトと呼ばれた。トヨは美称、メノミコトは女性神格を表わすもので、残る本体はウカ。隠されてきたその正体を今や明らかにするべきときである。

HP上のものとしては長めになったので、続きは次回に。

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