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発見 月の名所
第二回
奈良県 香久(香具)山

香久山の山容
甘樫の丘から畝傍山と耳成山を望む
甘樫の丘から見た天の香久山(上)
畝傍山と耳成山(下)

橿原市にあるいわゆる大和三山は香久(香具)山、耳成山、畝傍山からなるが、もっとも高い畝傍山でも200メートルに満たない高さで、平地の中にこんもりとした森が三つ点在しているような印象である。南側にある甘樫の丘から大和三山を見渡すと、狭い土地の中に三山が隣りあうように近接している様子がよく見える。三山の中でも香久山は特別である。152メートルを超えるほどの三山の中でもっとも低い山だが、「天(あめ)の香具山」と言われるように、神聖視されてきたのである。一体、なぜなのだろうか? 納得できる説明をこれまで聞いたことがなかった。

この聖なる香久山に「月の誕生石」の名で信仰されてきた特別な石がある。訪ねてみると、石の傍らにその由来を記した看板があり、次のように書かれていた。

月の誕生石
花崗岩で高さ1、5米幅は6、5米、奥行は3、5米あり円形黒色の斑点は月が使った産湯の跡と、小さな斑点は月の足跡と伝えられ古代より信仰する人多し

月の誕生石
月の誕生石。下の写真が蛇つなぎ石

民話より
昔、ひとかかえ程の丸味あるとても綺麗な石でした。次第に大きく成り人肌の様な温もりを残し、夕焼空を染め上げたように輝いて居りました。又不思議お腹の辺りに白い帯の様なものが浮き出てきました。尚不思議お腹が突き出てとても苦しそうに見えました。「お母さんの腹帯そっくりだ」「石が赤ちゃんを生むんだ!」 子供達は赤ちゃん誕生を心待ちにして居りました。そんな或晩のこと、山の方で赤ちゃんの泣く声を聞いたような気がして、「あっ! 石の赤ちゃんが生まれたんだ!」 子供達は外へ飛び出しますと香具山の頂から真ん丸いお月様が顔を出しました。翌日山へ見に行くと石がしょんぼりと横たわり胸の辺りに赤ちゃんの足跡が影のように残って居りました。

月の誕生石の近くに「蛇つなぎ石」があり、これも月の石と考えられてきたようだ。香久山が神話的で聖なる山とされてきた謎は、この民話に鍵がありそうである。香久山は実は月の山だったのではないだろうか。

蛇つなぎ石
三山に囲まれて藤原京(694−710年)があった。この京の朱雀門跡あたりから真東に香久山はあり(耳成は北側、畝傍は南西側)、円い月が出る位置にある。

平城京(710−)の東に位置する春日山、三笠山が月の出る特別な山だったことは『萬葉集』に関連する歌が少なくなく収められていて立証は簡単だが、香久山については『日本書紀』『古事記』『萬葉集』に月の山であることを明証する題材はない。しかし、そうでなければ解釈できない、あるいは月の山という前提があってはじめて解釈できる素材は存在している。

在野で古代史を研究してきた三浦茂久という方が『古代日本の月信仰と再生思想』(2008年)を公刊し、この点についての見通しが俄然明るくなった。

『古事記』にヤマトタケルと尾張のミヤズヒメが交わす歌がある(景行記)。

(タケル)ひさかたの 天(あめ)の香具山 利鎌(とかま)に さ渡る鵠(くび) 弱細(ひはぼそ) 手弱腕(たはやがひな)を 枕(ま)かむとは 我(あれ)はすれど さ寝むとは 我は思へど 汝(な)が著(け)せる 襲(おすひ)の裾に 月立ちにけり

(ミヤズヒメ)高光る 日の御子 やすみしし 我が大君 あらたまの 年が来経(きふ)れば あらたまの 月は来経往(きへゆ)く 諾(うべ)な諾な 君待ち難(がた)に 我が著せる 襲の裾に 月立たなむよ

ミヤズヒメの月経の血が服の裾についていたことから交わされたものだが、「月立ち」の言葉で月が新しく生まれ変わることと月経が掛詞になっている。ここで何故「天の香具山」が登場するかは、それが月の山だからであり、「利鎌」は三日月の形容である(鎌のような月というのは現在でも使われる)。

三浦茂久さんは以上のような結論を様々な論証により導いた。

さらに、『萬葉集』の巻第一の13番を引きながら、香久山が月の山であることを補強している。それは――

香具山は 畝傍を惜しと 耳梨と 相争ひき 神代より かくにあるらし 古も 然にあれこそ うつせみも 妻を 争ふらしき(中大兄の三山の歌一首)

という有名な歌。この長歌に反歌が添えられ、密接に関連する長歌・反歌が一体になって歌を構成するわけだが、その反歌には「香具山と耳梨山とあひし時立ちて見に来し印南国原」とともに「わたつみの豊旗雲に入日さし今夜(こよひ)の月夜さやけかりこそ」がある。『萬葉集』を編集した大伴家持はこれを「反歌に似ず」と注釈した。反歌にふさわしくないというのである。歌が作られた時代(7世紀半ばごろだろうか)と萬葉集編集の時代(8世紀半ば)では100年ほどの時代差があり、反歌になぜ月が出てくるのか、その意味が分からなくなっていたのである。

しかしこれも、香久山が月の山だからこそすっきり解釈できると三浦さんは言う。

飛鳥時代には、太陽ではなく月こそが信仰の対象だったとすれば、眺望が開け、これまで解釈が難しかったことの多くが解決する。たとえば、『萬葉集』には太陽を崇める歌が一首としてなく、反対に月に寄り添う歌が何故多数に上るのか、といったことが理解できるのである。

石舞台古墳
飛鳥地方にある石舞台古墳
飛鳥の地は、訪ねてみると、ごく狭い土地なのだなという印象である。東には宇陀市へと続く山並みが望見され、西には葛城山脈が望まれその北端に二上山があるが、飛鳥という地方そのものは空間として狭い。大地の高さにいた人びとは香久山の方向に出る月を見、葛城から二上にかけて沈む月を見ていたことだろう。土地も空も、なんだかちんまりしたような空間にあって、ごく間近く見えたであろう月といつも親しく対話していた、そんな古代人が想われた。

香久山はそのシンボルだったことが土地を訪ねて確信できたのである。

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