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第五回 月の望月(長野県佐久市)その1

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「月輪石」発見!!

「琉球湖三日月列島」を特集した「月と季節の暦」2014年版四月の欄に、「産土の月神」のタイトルで、沖縄の「第一尚氏の産土神はツキシロといわれた月の霊石。残念ながら、今は行方不明とのことです。日本列島には霊石が月の象徴だった事例が多く記録されています。大伴神社(長野県佐久市、平成の合併前は北佐久郡)にある、月がみ影を残したので『月輪(つきのわ)石』と呼ばれた霊石……」という記事を載せた。

沖縄や日本列島の各地で、月の信仰が石に象徴されている。大変興味深いことだが、では、現に佐久市にある大伴神社の月の霊石とは本当に存在したのか、現在も存在しているのか? 以前注目していた『萬葉集』の一首があった──「靫(ゆき)掛くる伴(とも)の男(を)広き大伴に国栄えむと月は照るらし」。この歌と霊石の二つがつながった。大伴氏族はそもそも月を守護神にしていた集団だったのではないか。

5月はじめ、佐久市に「月輪石」の調査に向かい、さまざまな方の協力を得、とうとうその霊石を発見することができた。以下の文はその顛末を含め、霊石が鎮まっている望月(現佐久市、合併前は北佐久郡)という土地が月を信仰した経緯、そしてやがて月の名所となっていく歴史の一齣を明らかにしようとするものである。

沖縄の月信仰

「月と季節の暦」2014年版四月(部分)

琉球を統一した第一尚氏(1406年から69年まで続いた王朝)は、月を産土の神としていた。月は生命誕生の源であり、産湯を授け、年々生命を更新してくれる若水を恵むなど、第一尚氏を守護する神であった。その信仰は月の霊石によって表されていた。1932年(昭 7)に発表された伊波譜猷の「つきしろ考」(『をなり神の島』所収)は、このような貴重な事実を発掘し、私たちに残してくれた。月暦ではこの産土神としての月に限って紹介したわけだが、意外なことに月は軍事の神でもあり、伊波の論考は実はこの点を主に考察したものである。はじめは生産的で生命力に溢れた対象としてあがめられた月だったが、破壊的で暴力的な軍事の神としても崇拝されていく。守護神という、存在を根底から支えた観念が、琉球の統一という軍事による征服過程において新たな信仰の観念を付加していく。伊波は次のように言っている──「産土神なるこのつきしろは、……兵を挙げた頃には、既にその軍神に昇格して、軍隊を援護するものと考えられていたに違いありません」。

伊波の労作は、第一尚氏の月信仰から出発して、この尚氏とは血縁関係でない第二尚氏(1469年から1879年まで続いた王朝)にまで軍神として含め月信仰が引き継がれたことを跡づけている。問題の資料は『おもろさうし』にあり、その巻第一の五に次の神歌がある──

聞得(きこゑ)大君(ぎみ)ぎや
赤(あけ)の鎧(よろい)召しよわちへ
刀うちい 大国(ぢやくに)鳴響(とよ)みよわれ
(又)鳴響む背高子(せだかこ)が
(又)月代はさだけて
(又)物しりはさだけて

この歌の訳は、「つきしろ考」にある「聞得大君は赤の鎧(よろい)を召し給い、太刀(たち)を佩(は)き給いてこそ、御国に鳴響(とよ)み給え、みいつ高き女君は、月代を奉じ、巫覡(ものしり)を先頭に立てて」、が分かりやすい。軍事の先頭に立って国家の最高神官の女性・聞得大君(きこえおおきみ)が武装して奮迅している光景だが(伊波は女性が先頭に立っていることが当初とても意外だったらしい)、この神歌は第二尚氏時代のもの。伊波はこのように第一、第二尚氏を貫いて軍事の神としての月信仰があったことを証明したが、この軍神としての月信仰は、軍事集団として知られた大伴氏の信仰にもひょっとしたら関係しているかもしれないので紹介した。

沖縄に太陰信仰あり。伊波は歴史に埋もれていた月をよみがえらせたが、こんなことも言っている──「日本の古典中には、太陰崇拝の風習は見出せないとしても、地名などに僅かにそれらしい痕跡を留めているとのことだから、南東の事実から推して、日本民族の量(はか)り知れない大昔、日本人が国家意識をもって定住しない頃、即ち南東人がまだ南島に移住しない頃には、この信仰があったと見なければなりますまい」。

古典中には月信仰を示すものがけっこう見出せることが明らかになっていて、80年前の伊波の論考からは隔世の感がある。そして、月信仰が生き生きしていた時代ははるかかなたの昔ではない。大伴氏と佐久市望月の歴史を月の観点からたどってみると、その事実が明確になっていく。

萬葉集と大伴氏

全二十巻からなる『萬葉集』を編纂したのは通説では大伴家持(718年ごろ〜785年)ということになっているが、はっきりしないところも残されている。しかし、最後尾の巻十六から二十までが家持であることは確かであり、これらの巻では家持の作が頻出し、大伴池主とか同氏族の坂上郎女(さかのうへのいらつめ)など氏族出身歌人の歌も数多い。いわば、家持はじめ大伴氏族の私家集のような観を呈しており、氏族の出自を誇り、同族を鼓舞し、顕彰する意図が濃厚なのである。

家持の以下の二首を見ると、それがよく理解できる。

  • 大伴の遠つ神祖(かむおや)の奥つ城(おくつき)は著(しる)く標(しめ)立て人の知るべく
    (巻第十八、No4096 岩波新古典文学大系の訳は「大伴氏の遠い先祖の御霊の鎮まる墓所は、はっきりと印を立てよ。人が知るように」)
  • 磯城島(しきしま)の大和の国に明らけき名に負ふ伴(とも)の男(を)心努めよ
    (巻第二十、No4466 訳は「大和の国に名高い名を負うている一族の人たちよ、心して努めよ」)

大伴氏族は宮廷の警護を司っていた武装集団であり、忠誠心に満ちた氏族として自らを誇っていた。4〜5世紀ごろが最盛期だったらしい(大伴氏族についてはよく調べていないが、縄文時代についてすばらしい研究を残しているネリー・ナウマンの『久米歌と久米』──檜枝陽一郎訳、言叢社──が大伴氏について触れていて、日本神話への大伴氏の介入を解明するなど鋭い問題を提起している)。

さて、前記したように『萬葉集』巻第七に次の歌がある。

靫掛くる伴(とも)の男(を)広き大伴に国栄えむと月は照るらし(No1086 訳は「靫を負う勇士の多い大伴の地に国が栄えるようにと祝うように、月は照っているらしい」)

作者名が分からない大伴氏族出身者の一首である。靫(ゆき)とは矢を入れて背負う入れ物のこと。武装集団としての氏族を象徴することばである。大伴氏族が出自した土地は難波(なには)という。海に開け、月が支配する潮汐を熟知することで船運が開ける土地である。万葉歌では難波に係る枕詞は「おしてる」。一般には一面を照らす意味と静態的に解釈されていて照らす当体が月であることも理解されていないようである。しかしこれは、月が渡っていく時間的な長い流れ、空間的な広々とした広がりを考慮した、月が渡り照る意味とする三浦茂久さんの解釈が十分に納得がいく(『古代枕詞の究明』作品社)。大伴氏の国とはそのような土地だったろうが、「国栄えむと月は照るらし」と歌われたときの月は、似たような一首である藤原道長が「この世をばわが世とぞ思ふ望月の欠けたることもなしと思へば」と歌った、みずからの栄華を狂喜するかのように持ち出してきた月と同じものかどうか、比較するのは興味深い。道長の歌には現世があり、掲歌には明日への祈りがある。「大伴の国」を守護するものが見据えられており、信仰の対象として月があったのではなかったか。(以下は次回に)

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