熊本の八代に行ってきました
「月と農業」に注目が集まるなか、わたしも農業の実際について勉強しなければと考えていましたが、折よく、「月刊NOSAI」誌が連載中の「月の出(番)です!」で長めに番外編を、とすすめてくださり、これを好機に八代で月のリズムの農業をいとなんでいる旧知の園田さんを訪ね、取材しようと、5月10日、11日の両日行ってきました。
キュウリ畑やジャガイモ畑の取材も有益でしたが、夜には園田さんの仲間が30人ほども集まり(九州環境保全型技術研究会八代支部の方々)、やはり月暦について講演をうけたまわりました。講演は講演としてなにがしかみなさんのお役に立ったかと思いますが、わたしとしては懇親の席で農家の方々からうかがう話が、どれもみなさんが作る作物のように新鮮、勉強させられることばかりでした。
翌日には、熊本市で暦をお使いの方々ともお会いでき、充実した二日間でした。熊本には、昨年来三度入ったことになりますが、阿蘇の巨大な自然に圧倒されるなど、忘れがたい思い出の数々です。そして今回、月のリズムにもとづいた農業を試みているたくさんの農家の方々にお目にかかることができ、ことばは適当でないかもしれないですが、熊本は先進的だなあ、と強く感じました。英語のインフルアンスということばは、もともとは西洋占星術で天体の影響ということから生まれたものですが、月がもたらすインフルアンスは、仕事にも文化にも、わたしたちにますます豊かさをもたらしてくれそうです。
なお、八代のレポートは「月刊NOSAI」7月号に「月の力――生物への影響、林業、漁業、そして農業」と題して掲載予定(連絡先=全国農業共済会=03-3263-6411)。ご参考までに、これまで連載の各タイトルは、
「太陽暦と月暦と」
「『ついたち』とは新月のこと」
「月遅れの黒川能」
「月夜の『西浦田楽』」
「二見浦の夏至=十五夜」
「月が作る驚異の自然現象」 以上です。
名古屋で講演
名古屋の「月を楽しむ会」主催による写仏と講演の催しに出向き、「月に行った人びと」というテーマで講演しました(5月22日の十五夜)。神話で、小説で、月に行った人びとはたくさん存在しています。前回の講演「月と夢」のつづきを意識して、夢のあるお話をもくろみました。
仲秋の名月は9月18日で日曜、翌日は「敬老の日」ですから、西暦的には前後を入れて3連休といういいタイミングになります。名古屋の会では、17日土曜の待宵月に月見の催しをやろうと企画がはじまりました。
二見浦での「日月 二見」(中日新聞の記事およびスケジュール欄参照)にも、名古屋から20人以上の方々が参加予定とのこと。〈月〉の会関係全体としては全国から70名を越す参加が見込まれ、にぎやかな夏至=十五夜の催しになりそう。テナーサックス奏者の山本公成さんは、夏至の日の出に夫婦岩でサックスを吹いてくれることになり、これもたのしみ。
「オカルト旧暦教」!
〈月〉の会会員の玉村さんが、今年出た高島俊男著『お言葉ですが…(9) 芭蕉のガールフレンド』(文藝春秋刊)のコピーを送ってくださいました。「オカルト旧暦教」というタイトルの一文が入っていて、とても参考になります。みなさんに一読をすすめます。
高島さんは、『旧暦はくらしの羅針盤』や『旧暦と暮らす』といった本の内容を批判し、「一番大きな、根本的な問題は、季節や天候が旧暦にあわせてやってくる、と言っていることです」と辛辣です。実は月暦を作って来年で10年になるわたしも、旧暦が季節や天候の判断、つまり季節が早く来るとか遅く来るとか、猛暑、暖冬などの年間予測に有効だとはとうてい思えないので、右のような本の論調が流布していくと、結果的に「なんだ、旧暦はダメな暦ではないか」ということになってしまうのではないかと懸念していました。実際、倉嶋厚さんや岡田芳郎さんといった気象や暦の専門家によるそうした論調への批判も目にしていて、おなじ旧暦を制作する立場から一言する必要を感じていたのでした。
もともと、旧暦が西暦に「改暦」されるとき、大きな理由のひとつに「旧暦は季節に合わない」という非難があったものでした(福澤諭吉の論が急進的で明快です)。西暦の方が季節をとらえやすいことは当たり前で、西暦は太陽暦だからです。
わたしが月暦と呼んでいる旧暦のメリットは、これらの歴史を踏まえたものです。季節感のあるはずの西暦下で、かえってなぜ季節感が希薄になってきたのか。伝統的な行事は、なぜ季節感を無視していとなまれるようになったのか。月暦にもとづいていた文化はどこに雲散霧消したのか。立春とはなんだったのか。日本人にとって1月1日とはいったいなんなのか。そして、月の存在は……。
それに、仕事や生活に西暦はどんなにすばらしいリズムを与えてくれたというのでしょうか。太陽の細かなリズムを示す二十四節気と月の復権が、以上のような西暦の否定的な問題に解答を与えてくれるのです。わたしは暦を「月と季節の暦」と名づけました。
この時代、安易なことばに飛びつく人が多いので困りものですが(飛びつきたい気分があるのですよね)、そうは自然(問屋)は卸してくれません。
ところで、高島さんご自身は旧暦を過去のものとしてだけ評価の必要を認める西暦主義者なのでしょうか? 気になりました。
|