トップへ
月と季節の暦とは
<月>の会
志賀 勝
カレンダー 月暦手帳
イベントスケジュール
月と季節の暦
志賀勝から一言
(2010年5月15日)


アタサさんのシタール演奏

4月28日に行われた「月の学校」の光景。前半はインドで20年間修行したアタサさんによるシタール演奏。後半は「賢治と月」の勉強会を開いた(〈月〉の会・東京オフィスにて)

芭蕉と月

夜明け前の細い月をご覧になったことがあるでしょうか? 幻想的な月です。月暦の晦日(みそか)近くになると見られますが、今日は卯月四月に入った二日月の日で、残念ながら数日前がこのようなチャンスのときでした。次のチャンスは、先になりますが、西暦6月8日、9日、10日あたりで、木星とともに細い月が楽しめるはず(4時前から4時過ぎにかけてがいい時間で、その後まで頑張れば日の出に至る光景が展開します)。

その夜明け前の月についてですが、芭蕉の句「明けゆくや二十七夜も三日の月」が来年の小学六年生の教科書に載るものがあるそうです。「知恩」誌6月号にこの句を鑑賞するための基本的な問題点について書きましたが、短文なので言葉尽くせませんでした。重複しないように気をつけながらさらに「芭蕉と月」の面白さに迫ってみたいと思います。芭蕉の全発句は980、そのうちの110句もが月に関係する句で(拙著『月 曼荼羅』参照)、月という観点から芭蕉を読んでいくと、従来の注釈の誤りが見つかったり、知られていなかった意外な発見があったりします。以下はその一つのケーススタディ……(ちょっと長めですが、芭蕉に興味ある人は必見です(笑))

「明けゆくや二十七夜も三日の月」

この句には、舟の中で一夜を明かして、という前書がありますが、制作年は分からず、1686年(貞亨3年)以前の秋のものとされています(三日月が季語)。秋も深まれば舟の一夜は厳しいでしょうから、仮に1686年初秋の七月の句だとすると、該当する西暦は9月15日、その夜中から明け方にかけてということになります。月の出は2時33分、日の出は5時23分。空が白みはじめる4時半ごろを句意の時間とすると、東北東から出た月は真東近くに移り、まだ地平に近い低いところにあります。月齢は26.7。春先の三日月は舟形の形状がユニークで、初めて見る人はその異貌に驚くことでしょうが、二十七夜のこのときの月も舟形、ただし左側がせりあがった恰好で見えていたことでしょう。

この句を解説したものに、「舟中より頭を出して東方の白みはじめた空をふり仰ぐと、二十七日の繊月が三日月さながらの風情で輝くのを見ることができた。二十七日の月は、夜を徹して事を行ったときか、早立ちのときくらいしか見る機会はない。その珍しい二十七夜の月を……」というのがあります。

早起きすれば見られるので「珍しい二十七夜」というのはややオーバーと思いますが(冬場などは朝6時過ぎでも捕らえることができます)、月齢は26.7ですから「繊月」というのも少し太り過ぎている感じです。一般に繊月は三日月を指すことばで、逆三日月の形状である二十七夜にも使えますが、月齢に応じて太目のときもあれば本当に細いなと感じさせるときもあります。細い月にこそ繊月はふさわしく、この句に付した芭蕉の自画賛「下弦の月のあはれなるあかつき……」という表現で十分すっきり入ってきます(念のため月暦八月の二十七夜についても調べてみました。5時時点で月齢27.1、七月の二十七夜の状況と基本的に変わりません。なお、月暦は年年歳歳繰り返される月のリズムで成り立っているものですから、月のデータが全部入っている今年の「月と季節の暦」からでも大体の傾向が判断できることになります)。

深夜早朝の月の出にご注意を

月の句を鑑賞するにはそのためには日付という重大問題が理解されないといけません。二十七夜を詠んだ芭蕉の句は、実は二十七日に詠まれた句ではありません。日付では二十八日のことなのです。月は平均24時間50分で地球に対し回転しているので、月の出の時刻は毎日遅れていきます。

月の出・南中・月の入り(東京、中央標準時)
月暦日次 西暦日次 月の出 南中 月の入り
四月二十二日 6月4日 23:42 翌5:40 翌11:46
二十三日 5日  - : -
二十四日 6日 0:07 6:21 12:42
(「月暦手帳 2010年版」から抜粋)
右の表は月暦の今月四月の月の出時刻を示すものですが、二十二日と二十四日の間の二十三日の月の出が「: -」(なし)になっています。では二十三日の月はなく二十四日に飛んでいるかというと、そんなことはありません。二十三日の月は日付は二十四日になった0:07分に出るのです。これが二十三夜。十五夜は一晩中見ることができますが、午前零時を過ぎたら十六夜になるわけでもなく、二十三夜の月の出は二十三日のときもあれば二十四日のこともありますが、同じ二十三夜であることに変わりありません。

いち日が24時間50分から成るならこういう問題は発生しませんが、月のリズムを地球=太陽の24時間リズムで考えようとすると厄介なことになります。毎月二十一日から二十六日にかけて日付をまたいで月が出るタイミングが発生します。この厄介な問題を解決するために「……夜」という表現が生まれたかとさえ思えますが、夜(や)というのは本当に見事に月のことばなのだと感心します。

「おくの細道」は「弥生も末の七日、……月は有あけにて……」と書き出されていますが、末の七日、つまり二十七日早朝に芭蕉が旅立ったのなら、二十六夜の有明の月を見ていることになります(西暦では5月16日が芭蕉旅立ちの日でした。今日は15日でちょうど明日がその日。こういう時期に旅立ったわけです)。以上「二十七夜」ということばからいろいろなことが分かってくるわけですが、初めてこのことばに接する小学生に、句に含まれた豊かさが教えられるといいと願います。私の経験では、小学一年でも月の満ち欠けは理解が早く、そして深く理解します。

芭蕉から賢治へ

以前の著書で宮澤賢治の作品「二十六夜」を紹介したことがありますが(『新版 人は月に生かされている』)、この作品には二十四夜、二十五夜、二十六夜の下り月夜の有り様が順を追って描かれていました。「賢治と月」の勉強会で、これとちょうど逆の月の相を描いている作品に気付かされました。「オツベルと象」で、三日月からはじまり、四日、五日、さらに十日、十一日の月が登場し、上り月とともに話が展開していきます。三日月と二十七夜に注目した芭蕉の句を賢治のこれら作品とともに勉強したら有益だろうと思われました。

訃報2件

井上ひさしさんが亡くなりました。井上さんについて思うたびに思い出すシーンがあります。『吉里吉里人』が出たときのことでしたが、勤めていた新聞社の仕事でインタヴューしました。普通インタヴューはカメラマンを伴って1対1で行いますが、このときは大出版社の部屋を借り、大勢の井上番の編集者や記者等が陣取っている中でのことでした。居心地が悪く、下手な役者みたいなインタヴュアーでした(笑)。『吉里吉里人』の面白さは「地域文化」として月の文化を考える視点につながっています(出版年は1981年ですから、もう30年も前のことになります)。

多田富雄さんも亡くなりました。「病い」について勉強したとき免疫について色々なことを教わりましたが、免疫学以外でも多彩なお仕事をなさった方でした。井上さんともども、とても残念な訃報です。お二方のご冥福をお祈りいたします。(了)


≪ 第七十八回へ 第八十回へ ≫
志賀 勝のトップへ
Copyright(C)2010 月と太陽の暦制作室 志賀 勝