志賀勝から一言 (2011年1月29日)
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| 1月15日、西伊豆にて「月的生活 和の暮らし」にご参加いただいた方々。 当ページ後半のレポートも併せてお楽しみください |
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新年明け間近。今回はトラ年最後の更新になります。ウサギ年は西暦2月3日からですので、お間違えなく。
小笠原の月
小笠原の父島には三日月山があるそうですが、山の東側に住む人が西方の山の上に現れる三日月の印象から名付けたのかもしれません。名称の由来も知りたく、訪ねてみたい場所の一つになっています。
1月半ばにその小笠原の方から暦の注文があり話を伺いましたが、島で見る月はやはり素晴らしいそうです。今は船が止まっていて、再開は1月末になるので、のんびり発送してくださいという話に、小笠原は別世界なのだと実感。訪問するにも、船で要する時間を含めて6日間ぐらいは必要とのことで、訪ねたい希望が高まりました。
連載小説「青銭大名」のミス
父島の三日月を想っていたら、「朝日新聞」で連載が始まった小説を読んでいる人から京都の東山に三日月は出るんだろうか、という疑問が寄せられました。東郷隆さんの「青銭大名」というのがその連載小説で、問題の箇所は1月18日付夕刊に「ぼんやりしていると、やがて東山のあたりから三日月が出た」とあります。東山に三日月が立つなら、太陽は西から上がるでしょう。京都市内から見て東山に三日月が出るはずもなく、小説家は月の位置関係が分かっていません。これを読んだ読者が東山に三日月を探し、背中の西山の方角に三日月が出ているのに「ああ残念、三日月出なかったね」とあきらめる光景を想像してしまいました。
小説の挿絵も不審です。描かれた月は三日月ではなく、なんと月暦二十七、八日ごろの逆三日月。画家の村上豊さんは東山に三日月はおかしく、逆三日月なら確かに東山の方角から出てくるのでその月の形状を挿絵にしたのかな、などと穿(うが)ったことまで考えてしまいました……。
月的建築
西暦新年明けの1月1日早朝、その逆三日月の形の月が明けの明星とともに鮮やかでした。建築家の落合俊也さんの一族が〈月〉の会・東京運営の西伊豆のペンションを利用してくださった日で、皆さんにその情報を伝え朝まだきの早朝を散歩して大きな金星と月のツーショットを一緒に楽しみました。忘れがたい一期一会の絵となってくれたことと思います(皆さん! 明日30日と31日早朝も東の空に明けの明星と細い月が併走して輝くチャンスですよ)。
落合さんのブログは、こちらをクリック。「月と共に暮らすことの現代的意味を探り月と共鳴する家づくりを実践しよう」というのですから、月好きの方は必見。住居を、昼の観点、夜の観点から捉え直そうとし、人間の生命のリズムに即した空間にするべく主唱しています。
夏至、冬至、春分、秋分で位置を変えながら運行する月を考えながら家屋の配置を設計する、方位の東、南、西を見直す、月光を生かす観点(窓の位置だとか大きさ、天窓の位置等々)など、私でも思いつくことがあります。日本では中世や近世に家屋や庭などを月を意識して作る流れがありましたが、近代以降は問題にもされてきませんでした。月的な住まいや環境を社会が受けとめるかどうかは、現在問題になっている「生活の質」に関わることです。
「月的生活 和の暮らし」
新しい暦の九月に、『萬葉集』の一首「春日なる三笠の山に月の船出づ みやびをの飲む酒圷(さかづき)に影に見えつつ」を掲載しましたが、この歌などはまさに逆三日月を詠んだもので、月の観点から見ると色々な情報が含まれています。
1月15、16の両日、〈月〉の会・東京では「月的生活 和の暮らし」を催しました(冒頭写真を参照)。私も、上記の歌を含めた「萬葉集と月」の勉強会を担当しましたが、「和服」に関する女性たちの集いがにぎやかに行なわれました。ごくごく小さな集まりでしたが、日本の一隅でこんな会があり得るんだと小さな誇りを感じました。以下に参加された岡崎さん、槇山さんにレポートを寄せていただきました。ご覧ください。
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