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第二話 三日月信仰
(茨城県つくば市・朏神社)

月暦二月に掲載したのは茨城県つくば市にある朏(みかづき)神社。同名の神社が関東以北を中心に八ヶ所あることも紹介したが、菅江真澄の秋田地誌などで秋田県内にもあったのをみたことがあるから、現在では果ててしまったものが結構あるかもしれない。

取材したつくば市の神社は西側が広く開けたところにあり、三日月信仰が生きていた時代には多くの人が三日月を拝んだだろうと思われる。神社を守っている4人の方(みな男性)の話では、その時代は戦後しばらくのころまで続いていたらしい。催事の時にはたくさんの女性が集まり、豆腐を捧げ、屋台もたくさん並んでいてにぎわっていた時代を彼らは記憶している。現在でも月暦正月と八月に催事を営んでいるとのことだったが、行事は午前中。三日月は拝まないんですかと聞くと、まったく論外、という感じだった。三日月がどこに上がるかも知らないようで、形だけを残して存続している行事に将来はあるのだろうかと危ぶまれた。

三日月信仰はどういう実態であったのかは、まだ分からないことだらけの実情である。史料としては中世の記録にさかのぼることができるが、菅原道真(845〜903年)の詩に、若い婦人は新月を珍重する、という重要な句が見えるから(拙著『月 曼荼羅』参照)、その由来の古さがうかがえる。新しい月、よみがえりの月としての新月=三日月をあがめる信仰、習俗は、私たちとしては太古の時代まで想像を羽ばたかせることが許されるのではないだろうか。

暦には「三日月の湯壷にうつる影みれば片輪も直る七日七日に」という現在では不適切な言葉を含む歴史的文句を掲載したが、これは栗杖亭鬼卵(りつじょうていきらん、1744〜1824年)著『絵本更科草紙』にあるもので、1811年(文化8年)のもの(水に月を映すという行為はきわめて重要)。同じ時期のもので随筆集として有名な『耳袋』(根岸鎮衛著、1814年。現在岩波文庫や平凡社文庫で読むことができる)にも、いぼの呪いは色々あるが、三日月に豆腐一丁供えてねんごろに祈るときはその治ること妙。豆腐は川へ流しすてる。誤ってその豆腐を食うものは、その食ったものにいぼ生ずるのも奇妙なことだという、という話が載っている。病気治癒を願う三日月信仰がいつ発生したかは不明だが、江戸時代末期には人気ある習俗だったことが分かる。いぼのほかにも、できものや眼病など様々な病いの予防、回復が祈願されていた。

*   *   *

昨年(2010年)月暦六月十四夜の催しが岐阜県郡上市であり、その打ち上げのとき〈月〉の会・長良川の方から次の話を聞いた。「二人の高齢のおばあさんが道路わきに座り込んで空を見ていたので何をしているか聞いたところ、三日月が出るのを待っているとの答え。私も一緒になって三日月が出るのを待ちました」。

数年前のことだが、長野県の方から、三日月が出る日は夕方西に向かい月が出ると松の葉を焚いて家族みんなでお祈りしている、という話も聞いていた。月暦一日の新月や十五夜の日に祈りを捧げることは沖縄などで今でも風習が残っているが、はじめて見える月としての新月=三日月をあがめることを習いとしている人びとはごくごく少ないことだろう。ただ、私や暦の利用者や〈月〉の会の人たちは三日月をいつも気にしており、機会あるごとに三日月に向かってありがとうと感謝を捧げているのではないだろうか。

最近は三日月の日を選んで講演する機会が増え、そのたびに三日月が見える場所に案内して観賞してもらうことにしている。正月を迎えて最初の三日月の日(2月5日)も「オリーブカフェ冷えとり」でその機会があったが、若い女性が多く、「はじめて見た」三日月に向かって拝む姿が記憶に残った。

(辛卯 月暦二月二十一日=2011年3月25日記)
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