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発見 月の名所
第三回 月の丹後(京都府)
――天女=トヨウカノメをめぐって――(その2)


比沼麻奈為神社

(上)比沼麻奈為神社の
拝殿・本殿(下)同・境内にて


境内にて
トヨオカノメノミコトを祀る神社は丹後半島に数多い。最後に落ち着いた場所といわれる奈具神社(「その1」に写真を掲載)をはじめ、比沼麻奈為神社(現在はひぬままないと読ませているが、もとは比治で、ひじ……と読むのがいいだろう)、大宮売(おおみやめ)神社、名木神社、乙女神社、志布比(しふひ)神社などがあり、地域がこぞって祀っている感じで、こういう神は異例中の異例といっていいだろう。トヨウカノメは丹後に降り立ち、土着した神中の神なのである。

比沼麻奈為神社の近くに、近在の人びとが「三日月田(でん)」と呼んでいた特殊な田んぼがあった。残念ながら現存していない。遺跡だけが往時をしのばせている。耕地整理という名目で解体されるという愚行といっていい事態が近い過去にあったらしく、今はふつうの畑になっている。復元が強く望まれる遺跡である。三日月田は公式には「月の輪田(でん)」と呼ばれていて、京丹後市教育委員会の説明板によると、「その昔 保食神(ウケモチノカミ)が稲種を天照大神に奉った田といわれています。」とある。この説明で、トヨウカノメではなく保食神と書かれている理由は定かでない。両者は同体といってもいいものだが、トヨウカノメは『日本書紀』では無視されて言及されていない神であり、その代わりに保食神が言及されているという関係にある。アマテラス云々は大きな問題だが、月の問題が拡散してしまうのでこの稿では触れない。

昔の三日月田の写真を掲載している Webページのアドレス
http://white.ap.teacup.com/hakuto/1159.html

なぜほかならぬ三日月のような手のこんだ形に田んぼを作り、それを営々として守り、米作りを行なってきたのか。それは、三日月に特別な意味がこめられていたからとするほか解しようがない。トヨウカノメが月から降りてきた神だから、と素直に解釈されたことがこれまでなかったようなのだ(これは私の浅見かもしれない。ウカと月との関係は単純明快といってもいいもので、これまでに指摘した人がいなかったとは思えない。そのような事実をご存知の方がいればご教示願いたい)。三日月田のあるところは月の名所中の名所なのである。


月の輪田碑と説明文

「月の輪田」跡(下写真も)。説明板が往時をしのばせるのみ。住民の話によると、かつては樹木の周りで盆踊りが行なわれたものだという。島根県安来市の盆踊りは「月の輪まつり」といわれるが、十五夜や十六夜の月夜に行なわれるものだった盆踊りに「月の輪」の名はふさわしいもので、あるいはこの田が「月の輪田」と呼ばれたのは同じ由来があるのかもしれない。いずれにせよ、三日月田のあるところで盆踊りが行なわれた、その月との由縁は圧倒的なものがある。

月の輪田遠景
三日月田はふつう「月の輪田(でん)」と書き物には記されている。現地を訪ねたとき、たまたま地元の方二人から話をうかがうことができ、三日月田と地元では呼んでいたと知った。昔の写真を見ると半月形にも見え、そのように記述している文もあるが、これはやはり三日月でなくてはならない。月輪(つきのわ)ということばは地名によくみられるが、池や水に映る月に関わった意味をもっているようだ。三日月田が一般には月の輪田といわれていたのはやはり水が関係しているのではないか。

三日月田の場所には、実は泉があったという。教育委の説明には重要なこの点を見逃しているが、地元の方の話では白い乳のような水が湧いていたとのこと。この泉に月が映えたのか、あるいは月と水のそもそもの親縁性によるものか、月の輪の名は水あってこそのものなのだろう。

三日月田の近く、数百メートルの場所に清水戸(せいすいど)という名の泉が現存する。やはりやや白っぽい趣がする湧き水だが、透明さを損なうほどのものではない。三日月田の泉もたぶん同じようなものだっただろう(近くにもうひとつ泉があると聞いたが、訪ね当てることができなかった)。清水戸について京丹後市教育委の説明板には、「この村を苗代といいます。大昔 豊受大神がはじめてこの地で豊作を試み、籾を浸した所といわれています。」とある。

清水戸とその説明板
清水戸とその説明板

湧き水は米を洗ったときの白濁した感じがあるからこういう理屈が生まれたのだろうし、米作に関わってトヨウケノメが語られてはいるがこの神が米作以後に現われた神ということではない。先述のように、トヨウケノメを祀る比沼麻奈為神社が三日月田の近くにあるが、真名井原の地で田畑を耕し、米・麦・豆等の五穀を作り、蚕も飼った、と神社が由来を言うように、食料の祖神としてその来歴は想像を超えた古さがあるかもしれない。私などは、縄文時代にまで貫いている神格と想像している。

『日本書紀』や『古事記』には穀神・食料神がさまざまな名前で表われている。ワクムスビ、トヨウケビメ、ウケモチノカミ、ウカノミタマ、オオゲツヒメなど。これらのうち具体的に語られているのは『日本書紀』が「一書(あるふみ)」にいわくと記すワクムスビで、頭の上に蚕と桑が生じ、臍の中に五穀が生じたとされているのみ。

このほか、断片ではあるが、月が絡む食料起源神話が知られている。ツクヨミにより殺害されたウケモチノカミから牛馬や畑・田の作物が生じた、という『日本書紀』、同じような内容をスサノオとオオゲツヒメの間の話と語る『古事記』である。

これらについてはインドネシアにおけるハイヌウェレ神話(月神が人間界に降りてきて食物の起源になったという神話)との相同性がすでに指摘されているのだが、ウケモチノカミやオオゲツヒメが月神であるとする認識はなぜか一般化していないのが現状だろう。

月の神と食料の神を分けて考えるのではなく、一体のものとすることが今やきわめて重要なことであると思われる。

*   *   *

実は、以上述べてきた論点を補強する歴(れっき)とした歴史的資料が存在する。それが中世にまとめられたとされる「神道五部書」として知られる資料群。このうち、「伊勢二所皇太神御鎮座伝記」では、ワクムスビの子である豊宇気(ウケ)姫命は丹後国竹野郡の奈具社の豊宇賀(ウカ)能売神で、もと舁女(ゲイジョ)姮娥(コウガ)であり、月天の紫微宮から天降りした天女、と記述している。「倭姫命世記(ヤマトヒメノミコトセイキ)」御饌都(ミケツ)神と大日◆貴(オオヒルメノムチ=アマテラスのこと、◆は「靈」の下に「女」)と約束を交わしたが、それぞれ月となり日となった、と記述し、食料神は月であることをはっきり謳っている。

「神道五部書」は伊勢神宮神官のあいだでの内紛を示す文書であり、その点への留意は必要だろう。また、月から降りてきた天女を語るのに中国神話の舁女や姮娥を引っ張ってきたのは不審である。トヨウカ=月、アマテラス=太陽という棲み分けも――この一文では触れないが――疑問がある。

にもかかわらず、トヨウカやミケツ神が月神であり、食料神であると記述された意味は大きい。月の神を語り継いできた水脈がなかったなら、あえてこのような断言をすることは決してなかったであろう。

トヨウカノメをはじめさまざまな名前で語られた女神たちは、月の女神であり、食料の女神でもあった。こういう系譜の上に、月からの天女を語る創作ものとしての『竹取物語』や『羽衣』が生まれていったのである。

丹後の地には、実はもう一つの天女伝説が伝えられてきた。次回は、あまり知られていないその伝説について綴ってみたい(以下次回)。

補記・前回「天の原振り放けみれば……」の問題を考えたが、大伴家持に「ふりさけて若月(みかづき)見れば一目見し人の眉引(まよひき)念(おも)ほゆるかも」の歌があった。これなど「ふりさけて(振り仰ぐ意味)」だけで月を導いている。

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