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月と季節の暦
志賀勝から一言
(2012年4月12日)

前回お知らせした西暦3月26日の金星・月・木星の直列は多くの方々が目撃したようでした。火星、土星が東の空に見えたときでもあり、地球に立って四つの惑星を眺めていると太陽系が平面といってもいい平らな空間に存在していることがよく分かり、私の周辺ではその感動で大いに盛り上がりました。7月15日ごろにもこの月、金星、木星が絡んだ夜空が楽しめますので、見逃した方はご記憶ください。詳しくは改めてお知らせします。

前回は3月26日を四日月と誤ってしまいました。正しくは五日月。訂正がもう一つあります。いよいよ迫ってきた金環蝕ですが、今年の「月と季節の暦」閏三月の編集面にさまざまな天体ショーを紹介し、その中の金環蝕のデータ部分に不備がありました。太平洋側の広範囲で観測される金環蝕ですが、日本列島における金環蝕自体は5月21日午前7時20分ごろから7時35分ごろまでで(日蝕全体は6時すぎから9時ごろまで見られます)、それぞれの観測点で4、5分の短さしかありません。こういう身近な情報にすべきでしたが、アジアからアメリカに及ぶ長い中心蝕帯の時間を入れてしまいました。金環蝕を楽しむそれぞれのポイントで報道を確認してください。

第1回「月と暦のワークショップ」ご報告

さて、今回の更新は金沢市での「月と暦のワークショップ」、浅草の「舟渡御」の復活、梅原猛さんの月暦についての誤解、を掲載しています。


金沢・卯辰山の山並み

第1回「月と暦のワークショップ」にて

(上)浅野川から月が出る方向の卯辰山の
低い山並みを望む(下)板前さんによる
料理をいただきながら、親密な空間で
ワークショップを行ないました

弥生三月の十八夜(居待月)十九夜(寝待月)に当たる西暦4月8、9日、金沢市で「月と暦のワークショップ」を行なってきました。半月ほど前にもマクロビオティック関係の人びとがオフィスに集まり、3時間みっちり月と暦の勉強をする機会を持ちましたが、このときと同様、それぞれ固有の日付けを持っている「月の誕生日」を確認し、自分がどういう月の相のもとで生まれたかを知ることからワークショップをはじめました。1日目は5時間にも及ぶ長丁場の会になりましたが(暦制作でお世話になったことのある写真家の桝野正博さん、宇多須神社の森宮司などが参加くださったのをはじめ、福井市や〈月〉の会・長良川の前田真哉さんなども遠くから駆けつけてくれました)、2日目は当地のアーティストの方々が中心で、皆さんにぎやかで私など出る幕がないほどでした(笑)。

「月の金沢」への期待

荒天、寒冷な異常な冬が続いた金沢ですが、ワークショップの二日間だけは好天に恵まれ、卯辰(うたつ)山から上がった月を楽しむことができた会でした。出始めの月は赤っぽいことが多いものですが、月の出やゆっくりとした月見をしたことがない皆さんは赤い月におどろいた様子。天候のせいで、月が見られる頻度は全国的にみると少ないだろうと思われます、それだけに月が見られたらそれはありがたい恵みと感じられるに違いありません。浅野川や犀川の趣きある風景の中で「月の金沢」を合言葉にしてくれる方々が出てくればうれしいことです。

二日間のワークショップは浅野川沿いにあって桜並木で有名な主計(かずえ)町茶屋街で開かれました。私は泉鏡花に強い思い入れある人間ですが、この町は鏡花生誕の地であり、記念館も存在しています。これらを訪ね歩きながら、改めて鏡花が残してくれた月の神秘性、生命力を綴る諸作品が思い起こされました。鏡花は闇から立ち上がってきたかのような作家で――闇という言葉には悪い意味は含まれていませんが――、闇と月は本当に呼応しているものです。思えば、鏡花の名の鏡とは月であり、月と花が同居しています。ついでにいえば泉は水、これまた鏡花作品に欠かせない要素です(鏡花作品に親しんでいる方は水が月に映えるさまざまな描写を思い起こしてください)。折から金沢は桜の季節。例年になく遅れているといわれた桜開花でしたが、とうとう花は開かないまま。その代わり、朱に朱を重ねたようなつぼみが浅野川を染め、赤い月とともに神秘的な風景を醸(かも)し出していました。

(前田さんのブログ記事は、こちらをクリック

浅草・舟渡御の復活と「三月十八日」

浅草の舟渡御
浅草の有名な三社祭の現在の日取りは5月の第3日曜を中心としています。変遷をたずねてみると、旧三月十八日に聖観世音菩薩の像が隅田川に上がったという説話をもとに祭事が営まれてきたもので、旧三月十七日の前夜祭、十八日の本祭がそもそもの日取りでした。明治時代の「改暦」直後、日取りが5月17、18日に変更となり、1963年(昭38年)にはさらに5月18日に近い日曜に変更される経緯をたどっています。全国の各地の祭がたどった道で、一部観光化に成功した祭を除き、多くの祭が衰退した大きな原因となったのがこの日取りの変更でした。

浅草では、神体が川から示現したので祭事は隅田川が欠かせず、「舟祭」と呼ばれていて、神輿を舟に載せ川に遊ばせることが根幹の行事でした。明治時代にこの祭の根幹が失われました。1958年(昭33年)に一度だけ復活したことがありましたが、それからさらに53年間絶えた行事でした。

今年の3月18日が日曜ということがあったのでしょう、53年ぶりに「舟渡御(ふなとぎょ)」が復活。オフィスからよく様子を見ることができ、写真に収めました。しかし、神体の示現があったという伝説上の日付け=推古36年(西暦では628年)三月十八日を現行のグレゴリオ暦に直してみると4月29日。三月十八日を西暦に直してみると毎年移動しますが、今年に適応すると4月8日で、この日に本来の三社の祭があったことになりますが、3月18日に「舟渡御」をやり、今年の三社祭は5月18日から20日まで。ややこしい話です。

浅草で神の示現があったという三月十八日には何か意味があったと思われますが、まだ確かめられません。しかしこの日付けでは思うことがあります。

梅原猛さんに柿本人麻呂を論じた『水底の歌』(全集版)がありますが、梅原さんによると柿本人麻呂は三月十八日が命日だといいます。この日について、次の文が同書にあります。

三月十八日……それは柳田国男の語るところによれば、あらゆる怨霊の命日であった。小野小町も和泉式部(生没年不詳)も平景清も、すべて三月十八日が命日であって、そして、柳田国男自身も不思議に思っているように、わが柿本人麻呂の命日もまた三月十八日であった。三月十八日は彼岸のはじまりであり、そしてあらゆる怨霊の命日とされたのは、延暦二十五年以後のことではないか。もう一ついえば、それは祟道天皇の怨霊と桓武帝の死ゆえではなかったか。

月暦を知っておられる方、あるいは一般に旧暦というものに理解のある方は、この梅原さんの一文が初歩的ともいえるミスを犯していることに気づかれるでしょう。そう、三月十八日の日付けを月暦ではなく西暦の3月18日と混同してしまっているのです。梅原柿本論の結論に関わる一文なだけに――梅原さんのさまざまな問題提起はまるで推理小説を読むような吸引力があるものですが――、その結論の信頼性はまったく失われてしまうでしょう。彼岸の中日に当たる春分が属するのは、月暦では如月二月のこと。ソメイヨシノならまだ全国的に開花前でしょうが、月暦の三月十八日では花開いて東北に移っているころでしょうか。季節が全然違い、また十八夜の月の存在も問わなくてはなりません。

なんだか、旧の三月十八日の祭事であったものを西暦3月18日でよしとし、これとは別にそもそも一体の祭事としてあった三社祭は別に5月半ばに行なうという浅草の祭の自己分裂の状況と変わらぬ認識の誤りが高名な文化人にも見られるのは、やるせないことです。(了)


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