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第五回 月の望月(長野県佐久市)その4

(最終回を予定していたこの連載ですが、月輪石についての訂正もありまだ 一、二回続けることにしました。この間、9月7、8日に「月輪石巡礼紀行」を組織し、その報告を9月20日のHP更新で行ない、今日=10月4日の更新でも掲載しています。連載の今回は大伴神社にある絵がツクヨミを描いたものという大きな発見について綴りました。)

(前回ページへのリンク)

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飾り馬の展示

飾り馬の展示(望月歴史民俗資料館にて)

もう一つの新発見

駒牽行事の中でも望月は特に著名で、「望月の駒」として多くの人びとが知るところとなった。行事についての史実は資料が少なく、室町時代まで続いた記録があるようだが詳細は分からないことが多いようだ。望月についても同じである。

中世の戦乱により1582年に望月氏が滅亡し、やがて江戸時代を迎える。駒牽行事のために馬が牽かれる行路は奈良時代に拓かれた東山道だったが、江戸時代になると新たに中仙道が拓かれ(1602年)、望月は中仙道六十九次の一宿となった。人びとが盛んに往来する宿場となり、望月の新たな時代が始まった。「望月の駒」の歴史と記憶は土地を彩るものとして人びとの口の端に絶えずのぼったことだろう。望月の名はつねに月の存在を喚起する。しかし同時にまた、そもそもの望月の土地生成の由来である月の信仰は、信仰を支える人びとを失って忘れられるか、細々と伝承されるに過ぎないものに留まった可能性が高い。江戸時代には、大伴神社が相当に窮迫していたことを示す資料も残されている。

明治時代になって、月の信仰が顧みられる一時期があったようである。それが、以下に紹介する大伴神社に残る絵である。


大伴神社に残る絵
もう一つの新発見、大伴神社に残る絵(齊藤透さん撮影)

本殿を見回して、筆者は壁に掲げられた絵に目が吸い寄せられた。冑をかぶり、異様な馬に乗った武人風の人物。暗い色調の絵で、本殿内も暗めで細かいことは分からなかったが、『皇大神宮儀式帳』が月読神と想定した擬人化した人物像がすぐに脳裏に浮かんだ。これはツクヨミを描いたものではないですか、と尋ねたところ、分からないとのことで、描いた人も絵にまつわる伝承も聞いていないとのことだった。

「武者」の正体を解く

絵を写真に収め、その後詳しく調べてみた。1889年(明治十七年)九月上旬に山本鯤という人物が描いたという落款がある。冑をかぶる人物は紫衣をまとった姿で、太刀を佩いているようだ。そして馬は、顔は猛々しい形相をした、馬に似せた何物かである。皮膚はうろこ状、下半身は馬の形状を留めず、まさに尾のように、飛ぶように流れている。両足は川に没したように描かれているので、絵師が足をどうイメージしていたかは分からないが、体が川に接するあたり火を噴いており、火が動力であることを明示している。馬に乗った人物が川をさかのぼる様であろうことは、波の描き様で判明する。

前に引用した「御牧望月大伴神社記」と「皇大神宮儀式帳」を再度振り返ってみれば、前者では月読は竜馬に乗り、千曲川をさかのぼって望月の地を見出している。後者では月読の乗る馬は竜馬ではなくしてただの馬とされているものの(ここから後世月毛の馬に乗る月読のイメージも形成された)、紫衣を着、金作の太刀を佩くという武人の姿を主張している。つまりは、この二つの古記の合成によってイメージを与えられ、形象化されたのがこの絵であり、ツクヨミを祭神とする大伴神社に月読神の勇姿を留めるべく奉納されたもの、と断定することができるのである。

(付記)9月8日、大伴神社でツクヨミを描いたこの貴重な絵について説明会を開いた。その際の説明は、以上綴ってきた判断材料を基に行なったが、同席された依田豊さん(佐久市中央図書館前館長)がその場で高性能のカメラにより写真を撮ってくださった。そこには、私の写真では鮮明ではなかった太刀がはっきり映し出され、しかも紫衣の下部には龍の絵が鮮やかに描き込まれていた。竜にも比すべきツクヨミが、使い馬である竜馬に乗って雄然と遡江する姿を明らかにしようとした構想というべきである。

「月の望月」の真価

大伴神社にあるツクヨミの絵は、明治時代まで月の信仰の記憶が残っていたことを示している。神社にはまた「明治辛卯」、つまり1891年(明治24)、月を詠みこんだたくさんの俳句を含む奉納板が掲げられていた(〈月〉の会会員齋藤透さんが教えてくれた。絵に集中していて私は気付かなかったが、これらの俳句を分析してみると面白い結果が得られるかもしれない)。明治中期の一時、月の信仰や月の存在がクローズアップされたようだ。残念ながら一過性だったようで、後代に引き継がれることはなかった。

大伴神社の絵は軍神としてのツクヨミを表しているが、すでに『萬葉集』の歌について触れたごとく、大伴氏族出自の移住者たちが望月地域においてもそのような信仰を運んだとしても不思議ではない。琉球王朝にも見られた軍神としての月、というのは私たちには意外で、決してほめられた話ではないが、月への信仰が歴史の暗い進展と共に奇妙な外衣をまとっていったと理解するべきだろう。いわば、軌道をはずれた月だが、第一尚氏が月を産土の神とし月がもたらした産湯に浸かって誕生した、としたような神話、そして、金作の弓を射たらそこに清水が湧き出した、としたような大伴神社創生の神話が私たちが第一に注目する産出力ある月の姿であり、人間に生命と生きる条件をもたらすと信じられた原初の観念なのである。

望月はまぎれもない「月の名所」といえようが、その名所たるゆえんは単に月を特別に観賞するための勝地ということではない。生命の水、生命の食料、さらには生命再生への願いといった生の根源的条件、そして自然の中に生き生かされている自己を月に仮託することで見いだしたことが重要であり、それは人間存在にとって根源的ともいえる生の欲求だから、今でも私たちを内部から突き動かす想念なのである。月の望月は、はるか昔から今日に至る人間を見つめさせる、数少ない月の名所というべきである。

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