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第五回 月の望月(長野県佐久市)その3

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大伴神社境内その1

大伴神社境内その2

大伴神社境内にて(上・下とも)

渡来民の存在

竜馬にまたがった月読神は、もっとも尊い色だったかもしれない紫の着衣に身を包み(中世にかけての神道書では、おかしなことに中国・道教の影響が見られる。道教で最高の色とされたのが紫であった)、太刀を帯びた軍人姿である。その月読に率いられ、靫(ゆき)背負う姿を存在の象徴とし、誇った軍人氏族・大伴氏の一支脈が、佐久郡望月に土着したのはまちがいない。土地に築かれた大伴神社の祭神は月読神であった。(補注1)

古墳時代、馬が大陸からもたらされ、各地に騎馬軍団が勃興していく。注意すべきことは、とくに関東において高句麗、新羅からの渡来民の存在を示す証拠が多くあることである。国境などなかった時代、人や馬は自由に日本海(東海)を越えて来たことだろう。大伴氏族もこうした人びとと関係をもったと思われるが、実態は分からない。いずれにしても、軍事、そして運送手段としてその後の長い時代を特徴付けるようになる馬の飼養、使用がはじまった時代である。

ヤマトと密接な関係を持つ大伴氏の進出は、ヤマト勢力の進出を意味していただろう。しかしもう一つ注意すべきことは、古墳時代から奈良朝、平安朝にかけての信濃や関東のイメージは、大海の中にヤマトの出先があるといった感じである。やがて東国に鎌倉政権樹立に至るような、西国に服さない東国の自立的な存在はいつも念頭においておく必要がある。

「駒牽き催事」について

さて、駒牽(こまひき)だが、これは東国(信濃、甲斐、武蔵、上野──こうづけ──)から徴発した馬を宮廷において天皇が引見し、役所や王卿(おうけい)らに分け与える儀式であった。東国では御牧(みまき)といわれる朝廷の牧場が整備され、そこで飼養された牧馬が年の一定の時期に京に運ばれたわけである。東国から輸送された馬を逢坂の関(京と近江の境の席)で朝廷側が迎えるのを駒迎(こまむかえ)、といった。古代史の研究者によると、それは東国諸国が服属していることの表現となり、王卿側の臣従の表示、といった機能を持つ国家的行事であった。王卿らに馬を下賜する儀式を通し、年中行事の事実において権力を示し、権威を示す行事であったといえよう。

しかしその行事に実態については詳しく分からないことが多い。大日向克己著『古代国家と年中行事』(講談社文庫)中の「八月駒牽──古代国家と貢馬の儀礼」によると、諸国からの貢馬は五月五日節の行事だったり、八月二十九日の行事だったりする歴史があったらしい。信濃に十五あった諸牧からの貢馬は、九世紀後半の864年(貞観六年)に八月十五日(中秋の名月の日)と定められ、867年から実施された記録があるという。しかし、このときの信濃諸牧に望月は含まれておらず、望月が御牧に編入されたのは十世紀初頭の905年(延喜五年)ではなかったかと大日向さんは想定している。そして、望月からの駒牽は八月十五日ではなく八月二十三日のことで、史料としての初見は912年にまで遅れるらしい。信濃諸牧からの貢馬数は60匹で、望月からは20匹、これらが逢坂の関に牽かれ、朝廷側に引き渡された。

東国の各地からの貢馬も八月中の他の日々に京に届けられるようになったが、駒牽といえば八月十五日と連想されることになる。それほど中秋の名月は重要な日取りだったのであり、そのめでたい行事として定着したのは平安時代九世紀後半から十世紀前半のことであった。しかし、望月から到着した馬の駒牽が八月二十三日だったにもかかわらず、駒牽といえば望月からのものと、当時も、後世も理解するに至った経緯は実に興味深い。それは、次の紀貫之(945年?没)の代表歌ともいわれる、「八月駒迎」の題詞をもつ和歌に関わっている。

逢坂(相坂)の関の清水に影みえて
 いまや牽くらん望月の駒
 (『拾遺和歌集』906年=延喜六年)

この歌は屏風絵に記されたものとされ(現存しない)、八月十五日に到着した駒があたかも望月からやってきたかのように人びとに思わせ、宮廷や貴族層の間で著名になったものである。紀貫之の歌は、馬が望月からのものであることを強烈に印象付けたことであろう(906年に刊行された歌だから、望月からの駒牽はそれ以前から成立していたのだろう)。

この歌で注意すべきは、「関の清水に影みえて」の影が月(光)を意味することである。逢坂の関には有名な泉があったが、その清水に月の影が映るという意匠が、満月を意味する望月と大伴氏が運んだ月信仰をもとに名付けられた地名の望月とが呼応し合い、八月十五日中秋の名月当日に駒が到着して駒迎が行なわれた行事を月尽くしの情緒で描き切ったのである(補注2)。この紀貫之の歌以降、いわゆる八代集には駒迎が立項されて掲載される(たとえば、『後拾遺和歌集』に「屏風の絵に駒迎へしたるところを詠み侍りける」として「望月の駒引時は逢坂の木の下闇も見えずぞありける」の恵慶の歌が載る(10世紀後半、前傾『古代国家と年中行事』)。

いわば、誤解の上に望月が有名になった感ある経緯だが、紀貫之の歌でもう一つ注意すべきことは、駒牽行事は前述のように国家的な一大イヴェントであり、権力の誇示に関わるものであり、遠方からの馬の輸送は古代の難路、木曽川の川越えなど苦労の末のものだったろうが、歌に詠まれた印象は、はるばると東から馬と人が旅をして来、月の下それを、いやご苦労さん、といって迎える、のどかで、牧歌的な光景であり、ロマンを触発するような光景に移し変えられたということである。国家的な一大事が、文化的な文脈に変換されたのである。そしてこのことが、望月という土地を「月の名所」に押し上げていく強力な力となっていったのである。

望月一族をめぐる謎

望月の牧のあったところは、鹿曲(かくま)川、布施川、千曲川に囲まれた東西 5km、南北 5kmの広大な御牧原台地だという(NPO法人望月まちづくり研究会 http://matiken.seesaa.net)。この土地で牧の管理を担ったのは、地名により望月姓を名乗った望月氏であった(望月の姓を朝廷から与えられたともいう)。家紋は満月を諸星が囲む「九曜紋」や「七曜紋」のように月をシンボライズしていた。大伴氏出自の一族に違いないのだが、直接の関係はまだ明らかにされてはいない。そもそも望月の地域史は現在まだ解明されていないことが多々あるという。この望月氏は平安末から戦国の時代にかけ、地方豪族、そして戦国武将へと、騎馬軍団を擁し、望月城に君臨した地域支配者になっていった。そして1582年(天正10年)、戦乱の中で敗北し、望月城は落ちて滅亡するに至るのである。月信仰を継承してきた一族が敗亡し、望月の土地から姿を消す。現在も望月氏の係累は土地にはまったく残っていないとのこと。月の存在は、信仰し、思い入れる人びとを失い、その後何百年にも渡り宙に浮いたのである。

(以下続く。次回は最終回の予定)


(補注1)前回大伴氏の名は人工的と記したが、『続日本紀(しょくにほんぎ)』を見ると、和歌山の宇治大伴連など、地名と複合した復姓の名前が出てくる。宇治という土地の集団が大伴氏に合流したことを示すもので、大伴の姓はやはり人工的である。

(補注2)影は月(光)という紀貫之の歌に関連して、重要な論点にも波及するので一言する。それは、これまで誤解されてきた『萬葉集』の歌について。『古今和歌集』の仮名序を執筆したのは同じ紀貫之だったが、その中で「和歌の父母」に当たる歌として二首を挙げているのは有名である。一つは「難波津(なにはづ)に咲くやこの花冬ごもり今や春べと咲くやこの花」であり、もう一つが「安積(あさか)山影さへ見ゆる山の井の浅き心をわが思はなくに」である。この場合の「影」も、関の清水の影が月(光)であるのと同じく、井に映る月(光)なのである。一般的に解釈されているものでは、「安積山の影まで映す山の泉……」(中西進氏)というようなもので、影が月(光)であると理解されていない。山の影が映る山の井、では平板すぎて意味をなさない。私の心は浅くないのですよ、という後半の心情を導く前半の叙景の良さは安積山、井、月がイメージされるからである。難波津の歌の花は梅の花、安積山の歌の影は月(光)、こうしてはじめて「花と月」の美意識を紀貫之は抽出したのである。望月の駒牽の歌はこの萬葉歌の系譜を引いて月を歌っている。古典において影の一語は注意深く接しなければならないことばである。この歌に関わっているアサカ、カツラギ王が、それぞれ月に因むものであることの指摘は三浦茂久著『古代日本の月信仰と再生思想』(作品社)参照。

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