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第五回 月の望月(長野県佐久市)その2

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「月輪石」を記録した古文書

萬葉の和歌に「伴の男(または緒とも書く)広き」という表現があったが、これは大伴氏を形容する慣用句である。伴とはヤマト王権の大王に奉仕する意味を持ち、伴造(とものみやつこ)を長とするさまざまな職掌集団が組織された時代、「大きな伴造」を意味した大伴はその時代に成立した人為的な氏族名であろう。そして、軍事的な同盟を結んだ氏族や集団が集合的に名乗った名と思われ、渡来系の人々も深く関っていたのではなかろうか。

全国に大伴神社は数えるほどしかない。滋賀の大津市、富山の高岡市(家持を祀る)、住吉大伴神社の名で京都・右京区などにあるが、佐久市望月にある大伴神社は、古墳時代(一般に3世紀半ばから7世紀末とされる時代)には神社の基となるものが築かれた、という伝承があるという。祀るのは月神・ツクヨミの神。

この神社の古伝承を記した古記があるという。松前健さんの論文「月と水」(『日本民俗文化体系2 太陽と月』小学館、に収められている)で知ったが、それは『御牧(みまき)望月大伴神社記』という古文書で、1714年(正徳四年)に書かれたものという。いろいろ探してみたがこの文書の所在が今分からず、大伴神社にも存在していないとのことで、やむなく松前さんの労作から引かせてもらうと、次のような伝承だという。

──蒼海原(あおうなばら)を支配していた月読が、竜馬に乗り、四方の国々の河や渓を見まわり、千曲川を遡り、一奇巌の上に登り、金の弓矢を地に投げたところ、清水が湧き出した。そこでこの地に神殿を建てて鎮座した。この地を望月といい、その岩の上に月の御影(みかげ)が残ったので、その岩を月輪石と名づけ、その地の湖を、月輪淵というと伝える──

月の信仰とともに、その対象となった月の霊石が存在したことをこの紹介によって知り、暦制作に生かしたわけである。松前さんはこの伝承は相当に古いものだとみなしているが、大伴氏族が月の信仰をよりどころとしつつ新しい土地に土着していった経緯をありありと想像させて興味まことに尽きない、生き生きした史料である。

この伝承の重要な点の一つは、水に係わり、水をもたらす源泉として月を明確に位置づけていることだが、航海や漁業従事に欠かせない月と海(水)の係わり──蒼海原を相手にしていた海民集団が信仰していたもの──から内陸の淡水・千曲川流域へとその居住が拡大していく様が、まるで私たち自身が足を運んでいるかのように追体験できる、リアリティある文書である。

竜馬に乗る月神というイメージは、『皇大神宮儀式帳』(804年の文書)に、伊勢神宮内宮の月読は「御形は馬に乗る男の形にして、紫の御衣を着、金作の太刀これを佩(は)きたまう」と記されるのと軌を一にしている。月神は男神であって馬に乗る、というのは、これまで私のHP上で取り上げてきた「ウカ」とか「ウケ」という名の月の女神とは異なる神格だが、これは時代が下って現れた新しい月信仰の形というべきだろう。ツクヨミは『萬葉集』に詠まれ(萬葉集には月人壮士(つきひとおとこ)という表現も見られるが、これは中国の説話を取り入れたものだろう)、松尾大社(京都市西京区)に国内最古といわれる木造神像三体が安置されているが、中の一つの男像はツクヨミではないかとされるもの。これらは、暦作りの技能を持った渡来系の壱岐島・卜部(うらべ)氏のもたらしたものではないかと想定されている(西田長男、保立道久さんの説)。

(望月の現地では、月輪石の発見とは別にこの馬と月をめぐるもう一つの重要な発見があった。この連載で後述する)。

月輪の地名と全国の霊石

「金の弓矢」の表現も大きな問題をはらむ論点だが、その矢を射ると清水が湧き出したというところは、男性格、馬という新たな要素が加わったものの、月と水をめぐる古来の信仰はそのまま保存されている。

月輪石、月輪淵と名づけられた月輪ということばだが、各地の月の輪田や月輪池を紹介する形でこれまでHP上に掲載してきた。松前健さんによると、三浦秀宥「月の輪伝承の系列について」(「岡山民俗」十一号、1954年)という論文があり、月の輪という地名はみな特殊な忌田(いみだ、神聖な田)であった「月の輪田」に因んだ名で、月の崇拝・祭祀と結びついていた、と指摘しているという。大伴神社にも忌田があったらしく、この指摘は重要だが、ただ池の名、滝の名、川の名などの形でも各地に存在しているので(人名にもなっている)、水との絡みを無視することはできないだろう。月輪石という名称は他に所見がない。しかし、月の霊石ということではいくつか事例を挙げることができる。

奈良の香具山の「月の誕生石」
高知の月山神社の神体


京都の月読神社の「月延石」
以前紹介した奈良の香具山の「月の誕生石」(上写真左)。高知の月山(つきやま)神社の神体は三日月形の大きな自然石であった(同右)。京都の月読神社にも「月延石」という安産石が現に存在していて(右写真)、今も安産祈願のため妊婦さんが訪れる場所になっている。『摂津国風土記』逸文や『筑前国風土記』逸文には安産石についての記事があり、これらは月の石と明示されていないもののその可能性は非常に高い。他方、『筑前国風土記』参考文とされるものには「神石」として月の石が登場している。オキナガタラシヒメノミコト(息長足比賣命、いわゆる神功皇后)が応神天皇を産むとき、出産時期を延ばすために祈ったところ、月の神が教え諭すには、神石でもって腹を撫でよ、と言ったのだという。これが月延石(つきのべいし)の名の由来ということのようだが、『雍州府志(ようしゅうふし)』(黒川道祐著、1686年刊。岩波文庫で読める)という書物は、この説話を引きながら、その神石の一部が月読神社に移されたという伝説を載せている(『雍州府志』は月読神社の霊験として、安産のほか防疫、水難予防などを挙げている)。京都の月読神社の本拠地は壱岐島の月読神社だが、こちらにも由緒がありそうな石が存在しているが、それらしき伝承はないようで、もともとなかったのか、伝承が失われたのか。

月輪のことばをめぐってはほかにも色々語たなければならない材料はあるが、長くなるので以上で終え、大伴神社について話を進めよう。神社の古伝承に現れた月輪石、月輪淵の信仰は孤立したものではないことが明らかになったが、神社創建の由来が石と水を連ねて崇めた月の信仰にあったと今に伝わるとは、貴重この上もない。

では、月輪石は今も存在するのか?

発見の顛末を以下つづる。

「岩の上に月の御影が」

大伴神社の宮司さんに問い合わせたところ、実際にあるだろうとのことだった! しかし、神社にではなく、城光寺(大伴神社の近くにあり、追って述べる望月氏の菩提寺だった寺)にあるはずだ、との答え。 私の暦ではいつもお世話になっている佐久市中央図書館の前館長・依田豊さんに連絡し、依田さんからは望月歴史資料館の上原美次館長を紹介していただいた。事前のこうした経緯に意を強くして、5月2日、日帰りの予定で佐久市望月へ。

まず大伴神社を表敬し、その後城光寺へ。城光寺は事前の電話でも通じなかったが、当日も不在のよう。境内には大きく、どれも月の石といっていいような立派な石が所狭しと立ち並び、月の石はどれだろうと想像しながら、まずはあきらめて歴史民俗資料館へ。上原館長は会合が入っていてお忙しい日だったが、懇切に応対してくださった。聞けば、城光寺にはすでに下調べに行ってくださったとのこと。そのいきさつを語る館長の話しはまるで一片のドラマを聞くようで、最初お寺の住職に月輪石の所在を問い合わせたところ要領を得なかったとのこと。館長はやむなく帰ろうとして、去り際「東京からわざわざ調べに来るのですが……」とおっしゃったところ、住職はにわかに気づいたらしく、ちょうど改装中のため家具、調度などで埋め尽くされた本堂脇に案内され、実際に見てきたとのことだった。このやりとりがなかったら、月輪石は存在しなかったと私は断念せざるを得なかったかもしれず、存在が永久に忘れられるということだってあり得ただろう。言ってみれば、神の御業が働いた幸運であった。

大伴神社の宮司さんはさすがに月輪石をご存知だったわけだが、土地の人にも、歴史民俗資料館にすら伝えられてこなかった霊石。土地に打ち捨てられたかのように、人々からは忘れ去られてきた石である。何百年とそうだったのかもしれない。しかし、お寺がしっかりと保存してくれていた。大伴神社から城光寺に移された経緯は不明だが、月輪石としてしっかり伝承され、そこにあったのである。

石の台座に月が飛び込んだような形状の霊石。古伝承が、「岩の上に月の御影が残った」と表現したごとく、はまった月が電灯の弱光を受けて微光を返しながらひっそりとしていた。なめらかなきめ細かい肌のようであった。

この霊石に、日の目を、いや月の目を見させてあげたい。(第五回その2了。次回は転じて、望月の名を世に知らしめ、やがて月の名所となっていく「駒牽き催事」、「望月の駒」について論じます)

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