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月と季節の暦
二十三夜の不思議な風習、または
柳田國男の「月知らず」
志賀 勝

二十三夜月待ちの風習について、『新版 人は月に生かされている』(2008年刊)で一章を割いてまとめたが、注意しているのでその後もこの風習に関する情報が次々に集まっている。こういういい風習がよみがえるといいと願うものの、地域の共同体が支えてきた風習だから、現在のように人びとが砂のように分散して生きる時代では復活は至難のことと思われる。〈月〉の会で一度は計画してみたいと思っていたところ、秩父市三沢地区に「二十三夜寺」(正式には医王寺、真言宗豊山派)があり、このお寺が月暦で二十三夜行事を続けていることを知った。この行事に参加させていただくことで私たちにとって初めての二十三夜待ちを体験することができた。幸運だった。

毎年九月二十三夜が行事の当日で、2013年は西暦で10月28日。この夜19時に寄り合いをはじめてさまざまお寺の催事に加わり、真夜中の月を待った。二十三夜の月は、私自身はよく見る月で、弦を上側に半円を下側にしたその奇妙な恰好がとても好ましい。ただし月の出から見たことはまだなかった。参加者のほとんどは、多分二十三夜寺の檀家衆を含め、この月に対するのは初めての体験だったのではなかろうか。月の出の時刻こそ二十三夜当日の23時半過ぎだが、東方には高からぬ山があり、そのため小一時間は遅れると思われた。実際、上がったのは日付が変わった0時15分。二十三夜の月は左側が競りあがっている形だが、左側の角に当たる先端がぴかっと光って矢を放った。強烈な光芒で、折から東の空を絵にしていたさすがの木星、一等星の数々も影を失ったほど。光芒はどんどん領域を増して、間もなく二十三夜月の全貌が姿を現した。その奇妙な、独特の存在感。

初めて見た人はさぞ驚いたことと思われる。是非この二十三夜の月、あるいは二十六夜の月なども多くの人に見て体験してほしいもの。これらの月は毎月あるのだから、見ようと思えば機会は多い、しかし今の時代、この月を知らずに生涯を過ごしてしまう人が多いのでは、という思いが過(よ)ぎる。誕生と成長、生命、水、豊穣と多産、病気治し、死と再生など、多岐にわたる人間存在の存立条件をめぐって深く信仰されてきた月。その月と親しまなくなっている時代は、人間にとって不可欠なそれらの希望が断たれた時代であろう。二十三夜の月待ちとは、現代とは逆に希望のため月を掲げた人びとの尊い営みなのであった。

*     *     *

人間が月に深い愛着を抱いてきたということに思いを馳せないと、二十三夜待ちの風習は理解がむずかしいだろう。月待ち行事は普遍的ともいえる日本人の営みなのだが、この風習の意味や歴史をたどることは意外にむずかしい。ごく普通の風習だったにもかかわらず、あるいは普通の風習だったからだろうか、解明が進んでいないのである。その大きな原因は月に関する無理解にあると思われる。二十三夜の風習を語るには、問題が多岐にわたっていて、短い文ではとても語り尽くせない。この場ではこの風習について論じた柳田國男の「二十三夜塔」についてのみ簡単に触れてみたい。私たちに大きな遺産を残してくれた柳田だが、どうも月に関しては「月知らず」のようなのである。二十三夜の風習を「不思議」と語るこの論文で柳田は、月待ち風習が月そのものの信仰から営まれてきたものであることを否定しているのである。以下の文にそれが表わされている。

二十三夜様といふ神様が……月天子である、又は月讀尊といふ神様であるということは、誰しも考へやすく又物知りの言ひさうなことであったが、夜毎に出ては照らす空の月が、この二十三日の祭の夜ばかり、さういふ神になりたまふといふことは、却つて単純な少年少女などには、受け難い話であった。なぜ他の日には何もなされぬのかといふことが、先づ彼等の疑問になるからである。

このように、月を主役とする行事であったことを否定し、不明となった月とは別の神的なものがこの夜には訪れるのだと想定した。つづけて、二十三夜の月が薬袋を背負って来る、と言っている村が方々にあるが、「それはこの晩の祭をよく勤める者は無病健康で一生送れると、言ふやうな時に引くことわざのやうなもので、さうであらうかと思って出て見る者などは子供にもなかった」とまで書いている。中国の、月の中のヒキガエル、またはウサギと薬、あるいは竹取物語の月の不死の薬の話を柳田が知らなかったはずはないだろうから、月を無視したこの見解は不審である。

柳田は月と親しんだ人かなと疑わせる箇所もある。二十三夜の月は夜明けの少し前に山から出てくる、といっているところなどは、子(ね)の刻ごろ(午前0時前後)が月の出なのだからたとえ山間部であっても「夜明けの少し前」はないだろう(柳田は二十三夜待ちを徹夜行事と考えたく筆を走らせてしまった。この風習は月の出を拝して終了した可能性もあり、その点は未解決である)。この夜の月が三体になって山を離れる、ということを聞いて、まさか、と柳田は思う。そして、阿弥陀、観音、勢至の三尊への信仰が三体の月の話をでっち上げたのだと解説する。

三体月はめったにない大気状況による自然現象だから無理もないといえばそれまでだが、しかし話を聞き取ることを旨としている柳田に実見者の声は届かなかったようだ。二十三夜と共に二十六夜の月も三体月の信仰を集めていた。大正時代の末期に、この二十六夜の月が三体になって現われた様を実際に見た天文家がいた。感極まった民衆の姿も回顧されている(拙著『月 曼荼羅』で紹介した)。三体月の現象は(ごく稀ではあれ)事実なのである。近年、太陽がいくつか見える幻日に関する報道を何度か目にしているが、幻日があれば幻月もある。幻月についてはそれを報告した歴史資料をいくつか見たことがある(たとえば『甲子夜話』)。だから、柳田の意見は「合理的」に過ぎるのである。柳田は1875(明治8)年の生まれで、それは月暦が廃絶された2年後、都会に住む人間には月のことが分からなくなった時代に相当するが、まさか柳田ほどの人物が月知らずとは考えにくいことではあるが。大正の末期といえば、柳田50歳のころである。

阿弥陀信仰との関連で言えば、阿弥陀信仰が先か三体の月の実見が先行することで阿弥陀信仰に接続したのかは分からないものの、一年の内の一定の日にはなはだしい民衆が月そのものの姿を待ち望んでいたことは動かない事実である。そして、三体の月でなくても、実際に二十三夜の月の出を体験すれば、その神々しい光に心打たれない人はいないのではないだろうか(そもそも浄土思想=阿弥陀信仰は月との関連で形成されたと思われるが、日本では太陽信仰がまぎれこんでしまっていてよく分からなくなっている。朝鮮半島では月信仰と表裏一体である)。

二十三夜にまつわる言い伝えをいくつか柳田は紹介している。中の一つ、薩摩の甑(こしき)島の話は、三人兄弟の末っ子が兄に憎まれ地底に落とされ、二十三夜の月に救われたというもの。三体になって現われた月が、中央は天に留まり、左右のものが船となり船子になって救ったわけだが、「この夜の月は形も船に似ているので、殊に漁民は救済の恵みを信じて居たものかと思ふ」と、ここでは柳田の理解は正確である。

甑島のこの言い伝えはとても直裁であり、二十三夜の月待ちが月への信仰に拠った行事であることをストレートに表わしている。他の言い伝えも、先に見た薬の話であったり、豊穣に関わるものあったり、みな月に寄せて育まれてきた信仰そのものである。にもかかわらず、柳田はこれが月への信仰であることを素直に認めなかった。

二十三夜、あるいは二十六夜、二十二夜、十九夜等々、月待ち行事が各地で多様に展開されたのはなぜか、各地域でさまざまな個性的な現われをしつつ全体として「月待ち」として括ることができる行事が営まれてきたのはなぜか。現在の段階ではまだ完全な回答がむずかしいかもしれないが、想像をたくましくすれば、歴史以前の新石器時代=縄文時代に根を下ろした月信仰(先に見たように、それは誕生と成長、生命、水、豊穣と多産、病気治し、死と再生などに関わる)が流れ流れて後代に生きつづけた証だったのではないかと思う。その意味では、似たような行事である庚申待ちとか日待ちとは決定的に区別されるものであり、月があくまでも人間に近しい存在として慕われたのである。庚申待ちなどは月待ちから派生してきた行事なのかもしれない、と私は想定している。(了)



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