月
月と季節の暦とは
<月>の会
カレンダー 月暦手帳
イベントスケジュール



【外部リンク】
月的生活のすすめ
月のリズムを感じながら
毎日を楽しく生きるための
情報サイトです
月と季節の暦
月を楽しむ 月と親しむ


赤米神事の種籾を一緒に育ててみませんか

赤米をアカマイと読みますが、対馬の地元の方は、アカゴメと呼ぶそうです。 少しずつ、赤米神事、赤米伝承のことを勉強してお伝えできたらと思います。 対馬・豆酘(つつ)の赤米神事が主藤公敏さんお一人で執り行なうようになったのは、2007年の旧暦一月十日(2007年2月27日)、今から13年前のことです。
長崎新聞の「廃れゆく赤米神事」という記事で詳しく書かれています。


No.1 頼むけん今年まで


新聞記事の文章補足
(1) 豆酘(つつ)→豆酘の地名の由来。
元々は、古代大陸航路の重要な港として「津津」と呼ばれたとされる。1471年、朝鮮の『海東諸国紀』の文献の倭寇に関する記述の中に『豆豆浦』とあり、やがて、山岳信仰と仏教が密接となった天道法師信仰の影響力が絶大となった元禄時代に、天道法師が入定したとされる龍良山八町角にある石積より、酉の方向に村があるので、酉の偏をとって現在の「豆酘」となったと推定されている。
(2)初参り→旧暦一月二日に赤米を鍋で炊き神前に捧げる儀式。
昔は、夜中の丑の刻より多久頭魂神社で神事を行なった。今は朝マイリするようになった。。長崎新聞の「廃れゆく赤米神事」という記事で詳しく書かれています。
(3)稲作伝来の地→『日本書紀』顕宗天皇三年(487年)四月五日の条に、対馬の日神が、阿閉臣事代(あえのおみのことしろ)に託宣をした記述がある。
「磐余の田を以て、我が祖 高皇産霊を献れ」「神の乞(こわし)の依(まま)に田十四町を献る」「対馬下県直、祠に侍ふ」上記の記述を手掛かりに、豆酘にある高皇産霊尊を祭る「高御魂神社」が日神に誓約(うけい)した場所とされ、古代の大陸航路の寄港地である豆酘が稲作伝来の地だとする説。
参考文献『赤米伝承 対馬豆酘村の民俗』城田吉六 葦書房1987年初版




No.2 打ち砕かれた期待


新聞記事の文章補足
(1)多久頭魂神社(たくずだまじんじや)
対馬・龍良山(たてらやま)そのものを神域として、対馬県主のタケミココノミコトが天神地祇を祭った神社。やがて天道山信仰と仏教が習合され政庁観音堂豆酘寺の所管になる。明治の神仏分離により、観音堂豆酘寺は、多久頭魂神社の遥拝所となる。現在、豆酘の多久頭魂神社の境内に高御魂神社(たかみむすひじんじや)があり、タカミムスヒが祀られている。
(2)お亭坊(おていぼう)
新聞記事では、テイの字を「亭」としているが専門家の著書では「停」となっている。 供僧(ぐそう)の中で秘伝を授けられた者を、「坊主なり」になったといって「お停坊」と呼ばれるようになる。「坊主なり」になるには、十二月の吉日をえらび、神田浜の海水で禊ぎして精進潔斎する。
(3))赤米の神渡り
旧暦一月十日に執り行われる頭受け神事。 古代の神事そのものの如く、深夜御神体の赤米の入った俵の下で、御神体を送り出す酒宴が催される。十日月が、西の山に沈む頃、家の中の明かりを消し、松明を照らして道案内の晴れ頭主を先頭に行列は出発する。道案内に続き、赤米の御神体を背負った「お守り申す」が続く。お守り申す役は、御神体が重いからと言って、絶対に揺すり上げてはいけない。御神体の後には、「ゆり」を捧げた供僧が続く。すべての人が無言である。
無言の中、古式にのっとり祝い歌 「さてはお発(た)ちかお名残り惜しや またもこの座でこの如く 是非に上様(うえさま)、お発ちとあれば、 残しおかれよ福の神。」 朗々と歌いあげる中を赤米の御神体は出発する。 「受け頭」の家族縁者は戸外に土下座して、柏手をうって礼拝し赤米の神を迎える。 「お守り申す」の背中より赤米の御神体は本座の天井のさるかんに吊るされる。 お停坊は、次の順序で赤米の御神体を浄める。 @真言秘法を唱え拝む。 A海藻のねずみ藻を俵の両側に差し込み拝む。 B竹筒の海水をねずみ藻にかけて浄める。 C竹筒の海水を、御神体に振りかけて浄める。 D真言秘法を唱える。 これが終わって、受け神事の当主が柏手して拝む。皆の参拝が終わるのが午前3時くらいになる。
参考文献『赤米伝承 対馬豆酘村の民俗』城田吉六 葦書房1987年初版




No.3 一緒に続けていれば







No.4 妻の苦労へ気遣いも


新聞記事の文章補足
(1) 種子島の茎永(くきなが)
種子島の宝満神社御田植祭という神事がある。 円墳のような形の小高い「お田の森」の磐境(いわさか)で神事が執り行なわれ、その後、お畦(せまち)と呼ぶ神田で太鼓囃子と共に、赤米の苗の田植え(水稲)をする。次に舟の形をした「舟田(ふなだ)」で田植え歌に合せて踊って奉納の田植え(陸稲)をする。舟の形をした田で陸稲することが、興味深い。
種子島の赤米の稲は、茎が長く1.3m程(対馬の赤米は、1m)もある。茎の長い赤米を植える土地という由来で茎永の地名が生まれたという説がある。
*対馬・豆酘と種子島・茎永の赤米の比較
1.米の種別
両方とも ジャポニカ粳
2.稲の茎の長さ
豆酘 約1m,茎永 約1.3m
3.芒の長さ
両方とも 4 〜6p
4.籾の色
豆酘 赤褐色 , 茎永 黄色
5.玄米の色
豆酘 赤褐色 , 茎永 赤褐色(赤みが強い)
6.精米した時の色
豆酘 赤いすじとなって残る , 茎永 赤みが多く残る。
7.炊きたての匂い
豆酘 カバシカの香りがする , 茎永 香りがない。

(2)亀ト(きぼく)
旧暦正月三日の14時頃、大潮で干潮を迎えた頃、「ねずみ藻」と呼ぶ海藻を採取し、雷神社で亀トを行い吉凶を占う「サンゾーロ」と呼ばれる神事。岩佐家が代々執り行なう。亀甲を5ox7oの長方形の穴を掘り、亀甲の表皮だけを残す。そこに、「ははか」と呼ばれる木を焼いた炭火をあて、亀甲表皮の裂け目によって占う。「ははか」の木は龍良山の原始林の中にある山桜だと言われている。
昔は、夜中の丑の刻より多久頭魂神社で神事を行なった。今は朝マイリするようになった。。長崎新聞の「廃れゆく赤米神事」という記事で詳しく書かれています。
(3)カンカン祭り
神功皇后新羅征伐の伝説より、出陣の模様を伝承した舟浮かしの神事。旧暦七月十八日に執り行なっていたが、今は、新暦8月18日。
(舟を作る。)神事が始まる前に、観音堂の拝殿で、神事に使う舟を作る。
(赤舟と白舟)
@70p程の長さの板で舟型を作る。
A7カ所に穴をあけ竹ひごを差しこんで龍骨とする。
B細い竹ひごを横にまわして結びつけ舟の胴体とし、中央に竹の帆柱を立てる。
C一反の赤の晒布(白舟は白)を切って舟の胴体を包み帆をかけ、米塩を包んだ白紙を舵に結びつけてできあがる。
(出陣の神事)
白舟、白旗、赤舟、赤旗、太鼓、供の者の順で行列して多久頭魂神社一の鳥居をくぐり、大明神の森の前の鳥居で行列が止まる。太鼓の合図で白舟と赤舟が、舟浮かしの岬へと競走する。
(舟を浮かべる) 赤白二隻の舟を一旦海へ浮かべて、神功皇后新羅征伐出港の故事を行う。その後、二隻の舟を舟浮かしの神(小松崎神社)の神前に供える。
参考文献『赤米伝承 対馬豆酘村の民俗』城田吉六 葦書房1987年初版






No.5余裕なく「関心薄れた」


 こんにちは、対馬・豆酘の赤米伝承について、少しずつ勉強しています。読んで頂けると幸いです。 宇賀伊(おげーん)の山について 対馬・豆酘(つつ)には、宇賀伊(おげーん)の山と呼ばれる場所があり、今は、日露戦争の時に遠方の対馬海峡を監視していた由来から遠方壇と呼んでいます。この遠方壇には遺跡があり、明治初年、畑開墾の時に、古い時代の朝鮮との交流を物語る銅製十字形把頭飾りが発見されました。弥生時代のものだそうです。 詳しくは、長崎県文化財調査報告書第172集がホームページで閲覧できるので、良かったら覗いてみてください。 ↓ 長崎県文化財調査報告書第172集 https://sitereports.nabunken.go.jp/files/attach/19/19991/14811_1_県内主要遺跡内容確認調査報告書.pdf この宇賀の山の麓には、国本神社跡と高御魂神社跡があります。国本神社跡前の水田一帯を「彼岸田(ひんがんでん)」と呼んでいます。この国本神社が8世紀初めの豆酘寺であり、彼岸田は、日本書紀に出てくる「日の神」が阿閉臣事代(あえのおみことしろ)に、我が祖の高皇産霊に献上するように託宣した神田ではないかと考えられています。 この彼岸田の隣に古くより、「そろばる」と呼ばれる地名があります。古代朝鮮語に「そらばる」という言葉があります。「徐羅伐人」(そらばる)、新羅人の意味だそうです。新羅人の移住地で、古代、豆酘の赤米が朝鮮から伝承されてきた地ではないかと想像が膨らみます。





子供向けの稲作りの本を読んでいると、参考になる話がありました。
稲の苗は、根を張って一人立ちするまでは、前の年の稲が種籾に蓄くわえたデンプンを使って育つそうです。稲の葉が左右交互に出てきて3枚目の葉がひらききる頃にデンプンを使い果たすそうです。ここからは、自分の根だけで栄養を吸収しなければならなくなるので、苗が弱らない目的で植え替えをすれば良いとの事でした。
浸種してから20 日目のいくつかが、そろそろプランターに植え替えないといけなくなってきています。
参考文献
『バケツで実践 超豪快イネつくり』農文協






長崎新聞の続きです。
No.6頭仲間脱退「後ろめたい」

ページTOPへ