トップへ
月と季節の暦とは
<月>の会
志賀 勝
カレンダー 月暦手帳
イベントスケジュール
月と季節の暦
志賀勝から一言
(2014年9月20日 月暦八月二十七日)


中日新聞2014年9月5日付

(上)今年は名月が三回。私の話を交え記事にした「中日新聞」(9月5日)の画期的な報道、(下)望月城跡にて=クリックすると拡大します

望月城跡にて
「奇跡の秋」初回の旅行

長野県佐久市にある望月という土地が月の信仰をもとに形作られてきたことを今年になって知り、せっかくの望月の名なので中秋名月に合わせて旅行を企画しました。〈月〉の会・東京の方々を誘ってその由来を尋ねる旅を提起し、同時にまた望月の地元の方々にも加わっていただいて交流をということで、仲秋の十四夜(待宵の月)と名月当日の9月7日、8日の両日かけての現地での催しでした。

地名の由来の記憶はほとんど消えかかってしまっていると思われたので、「佐久市望月のミステリーを解く」を副題に、「月輪(つきのわ)石巡礼紀行」と銘打った旅でした。月信仰を今に留める証拠であり、現存しているのが奇跡とも考えられるのがこの月輪石。そして地元にある大伴神社(ツクヨミ=月読を祭神とする)本殿に掲げられた絵がツクヨミそのものを形象化した図像であることを発見し、月輪石と絵の二つの遺物を参観することを主な目的とした旅でしたが、東京の会の参加者21人をはじめ地元の方含め数十人の方々が行を共にしてくれました。このホームページの別項で「発見 月の名所 月の望月」を連載し、望月における月信仰の軌跡を綴っていますが(こちらをクリック)、新発見のツクヨミを描いた絵についてはまだ発表しておらず、月輪石についても修正があるので、今後注目しておいてくだされば幸いです。


城光寺境内にある月輪石
城光寺境内にさりげなく置かれていた月輪石

月輪石に触る参加者たち
月輪石を囲んで
(上)月輪石に触る参加者たち、(下)月輪石を囲んで=クリックすると拡大します

【旅一日目】

旅一日目の9月7日は望月町歴史民俗資料館を参観、城光寺にある月輪石を拝し、解説を聞いてもらいました。その後広々として東側が見晴らせる浅科(あさしな)の道の駅に移動して待宵月の月待ちを試みましたが、雲が厚い状態でした。

私たちの旅はいつも地元の方々との交流を重視して企画していますが、月待ちのあとNPO「望月まちづくり研究会」の方々や月輪石発見のため尽力してくださった依田豊さん(私立中央図書館前館長、宮澤賢治を読む会)、資料館の上原館長が臨席くださっての交流会がにぎやかに行なわれました。

中山道望月宿にある立派な造りの老舗旅館、山城屋の広間を会場にし、月見団子や箕(み)にしつらえられた月へのお供え物が飾られる中、40人を越す人びとによる交流会が盛大に開かれ、宴たけなわの時には十四夜待宵の皓々とした月を拝むことができました。古めかしい旅館に差し込む月光は味わい深く、私たちの人生を越えた時間の堆積を感じさせてくれたものです。

交流会のすべてを取り仕切ってくださったのは町づくり研究会の竹内健治さんをはじめとする皆様。私たちの到着から帰路に着くまでの二日間、何から何まで至れり尽くせりのアレンジをしてくださり、本当に頭が下がりました。私たちの企画が町づくりのために何か役立ってくれることを願いつつ、このご恩を忘れずにまたの旅がいつか企画できればとも願われました。

歴史民俗資料館内にある「望月の牧」の陶画
十四夜の月
(上左)この地と満月のつながりを物語る森貘郎「望月の牧」の陶画=歴史民俗資料館内、(上右)山城屋の広間から拝んだ十四夜の月、(下右)月見を見立てた汁椀=齊藤透さん撮影。昆布だしで、朧昆布、うずらの卵で月見、秋のキノコ。山城屋のご主人は病をおして特別な調理に励んでくださいました。(下左)交流会での乾杯シーン
山城屋での交流会
月見を見立てた汁椀


大伴神社本殿にて

岩清水の光景

(上)大伴神社に掛かるツキヨミの絵を鑑賞。初めてツキヨミを表したものであることが判明。穂盛文子撮影=下2点とも、(下)その名も岩清水の光景

【旅二日目】

二日目(9月8日)は大伴神社に参詣、本殿に描かれた絵がツクヨミであることを、神社に伝わる古記録の「御牧(みまき)望月大伴神社記」と神道書「皇大神宮儀式帳」によって説明しました。まさにこの二つの史料を基に描かれた絵で、これまで気付かれていなかったことなのでした。参加者もそれぞれ意見を出して侃々諤々、ユニークな鑑賞会になりました。

その後、稲穂の匂う中、大伴神社が最初に創建された場所(岩清水という地名)に向かい、鹿曲(かくま)川(千曲川支流)沿いにそびえていたという一奇岩の跡、そこはツクヨミが矢を放って清水を湧き出させたと伝説化されたところで、対岸に古墳(御陵)が望見された所だったといいます。

奇岩は今は跡形もなくなっていて、古墳も消失していました。60年前、この場所が遊び場だったという方から幸いにも話をうかがうことができ、岩から湧き出ていたる水をよく飲んだとのこと、しかし「土地区画整理事業」によって奇岩はことごとく破壊され農地になってしまったという貴重なお話でした。ただ、清水は別な場所に引かれ、農水路に流れ落ちていたのを知ったのは幸いでした。ここには神社の神事に使うための「月の輪田」があった可能性が高いと思われますが、遺跡も記憶ももはや残されていませんでした。以前丹後半島の「月の輪田(あるいは三日月田)」を取材したとき、三日月形(半月形)の田があったという場所が遺され、湧き水もありましたが、そこも「整理事業」のため破壊されてしまっていたのを思い出しました。

ツクヨミの伝説を留める土地は、広々として眺望のいいところで、収穫前の稲穂の美しい風景の中想像を羽ばたかせることができただけでも、旅は十分に意義深いものでした。

県農業大学校にて
その後、やはり月の神話に縁があったと思われる「月輪(がちりん)寺」跡地に案内され、月待ちのため小諸市山浦の県農業大学校に移動、中秋の名月を待ちました。月待ちはいつも楽しく、浅間山を望む高台から真東に近く出てくるはずの月を、参加者一同気分を高ぶらせてワイワイやりつつ待ったものでした。私たちに同行した信濃毎日新聞の記者は翌日載った記事に、あいにくの曇り空で見ることはできなかった、と報じましたが、実は月は一瞬だけ姿を見せたのでした。写真に残されたその月は、何人かの人にしか見えなかった幻のような月でしたが、前夜と同じくその後現れた月明かりに照らされ、私たちは一路東京に向けバスを走らせたのでした。連夜の月見がかなった旅でした。


信濃毎日新聞9月9日付の記事
〈月〉の会の旅行を報じた「信濃毎日新聞」(9月9日)記事。


≪ 第百二十回へ 第百二十二回へ ≫
志賀 勝のトップへ
Copyright(C)2014 月と太陽の暦制作室 志賀 勝