志賀勝から一言 (2015年7月26日 月暦六月十一日)
月の見えない梅雨時が去った途端の酷暑、生命の危険を感じている方が多いと思います。水無月に入り、久しぶりに四日の月を探し、その後も五日、六日、七日……の小さな月を一息つく思いで眺めいりました。そして昨夜は隅田川花火。オフィスの前から打ちあがる迫力ある花火を大勢の人びとと一緒に観覧し、これも危険な夏を一瞬忘れさせる時間となりました。
(隅田川花火 7月25日 撮影・志賀照夫さん、2枚とも)
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| 仕事が終わって川を下りていく花火師たちが光をかかげて 手を振って去っていく感動的な瞬間です |
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新月の意味と新月信仰
さて、文月の一日(西暦8月14日)に岐阜県郡上市の願蓮寺で講演を予定していますが(スケジュール欄参照)、このお寺では毎月の新月の日に集いが行なわれていて、次回の新月が講演当日ということになります。
一日(新月)と十五日(満月ごろ)に竈(かまど)の神などにお供えする古くからの風習は今でも琉球の方たちが守っていますが、実際目にする最初の月である三日月に祈るということも日本のみならず世界に普遍的な風習で、残念ながらこれらの風習をきちんとまとめたものはありませんが、この欄では機会あるごとに紹介に努めてきました。今回もちょっと触れてみたいと思います。
まず新月という言葉ですが、これには三つの意味があります。一つは、月初めに実際に目にする三日月のこと(前日に二日月が見えたらそれが新月です)。一つは、「三五夜中新月の色、二千里外故人の心」という漢詩にあるような──これは十五夜の月が上がってきて友人を想う句です──、月が出始めたときを言う意味。そして三つ目が天文学的な地球‐月‐太陽が同じ方向に並ぶいわゆる朔(さく)の意味です。三つも意味があるので注意が必要です。
イスラム世界では、新月は三日月のことで、これが現在も使われる暦の最初の日になります。私はイスラム教徒のアラブ人やマグレブ人の旅行記を好んで読んでいますが、ヨーロッパが世界の覇者になる前、イスラムが世界を制していたといえる時代に、イスラム教徒は世界を旅し世界の諸相を紀行の形で残してくれました。月についてはいつも収穫があり、イスラム教徒は本当に月が好きなのだなと感心させられます。訪ねたところの月の信仰、祭事などがかならず記されていて、月を知るための宝庫になっているのです。
拙著に『月 曼荼羅』がありますが、いつか続編にまとめようと、有益な情報を書き溜めています。イスラムの新月信仰に関わるその一点を紹介してみましょう。 |