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月と季節の暦
志賀勝から一言
(2007年3月11日)

月暦新年明け、七種(人日)、小正月と続く一連の正月行事を終えました。行事を運営するのもなかなか大変なものがありますが、終えてみるとやってよかったと思えることばかり。自然に則ったリズムや、月と一緒の集いは居心地がいいものですし、参加した方々にもきっと満足していただけただろうと思えます(小正月には素晴らしい十五夜の月に恵まれ、月への歓声の声がとても印象的な一夜でした)。

前回のHPから1ヶ月、報告したいことが多々生じましたがHPの性格上取捨しなければならないのが残念です。そして今回はたくさんの方々の声が届いているので、私の文は最小限に留め編集したいと思います。

感動的だった正月二日の月

まずは二日月。新年会を終えた三日月の日にこの数ヶ月間メールをいただいた方々向けにメール年賀状を送信しました。私の文面には、前日の二日月を見たとの報が各地から届いたもので(長崎、石川、宮城、埼玉、東京西部等)その情報を入れたところ、自分も二日月を見たという多くの返信が届きました。「月と季節の暦」に親しんでいる方々の間では二日月への関心が非常に高いこと、それが暦の象徴の一つになっていることがよく分かった珍しい二日月実見の出来事でした。以下ご覧ください。

二日月と金星
印象的な地球照
長崎天文協会会長・松本直弥さん撮影の二日月。月と金星(月左上方)のランデブー、そして鮮やかに写し取られた地球照がなんとも見事ではないですか。さすが松本さんです。佐世保の〈月〉の会の田中千鶴さんが送ってくれました。
徳島県・Sさんのメール
おめでとうございます。
昨夜は徳島でも二日月を見ることが出来ました。
細くて赤い舟のようでした。数名に電話、メール等で連絡をして感動を分かちあいました。
長野県・Yさんのメール(抜粋)
19日は夕方6時前に 子どもと一緒に二日月と金星を見ました。

山際をオレンジ色に染め 天は闇へと変化するところに細く切れそうな月が輝いていました。
縦にではなく お皿のような形で まるで金星と向き合ってお話しているようだねと 子どもと話しました。
金星が落ちてこないように 下から受け止めようと手を広げているような二日月でした。

とてもクリアーな空気の中 雲もなかったので
月の丸い形も見えていました。
絵に描いたような円い中に 細い二日月が輝いていて
キラキラな金星と一緒に 歌い踊っているようでした。

いつも夕方になると 一番星を探す子どもと一緒に毎日変化する月の形を楽しんでいます。
二日月の中にはウサギがいないのでどこにいったのかしらなどと話しています。
香川県・Yさんのメール
明けましておめでとうございます!
お年賀メール有難うございます。私も二日月と金星を見ました!
家路を急いで大きなS字カーブを曲がった時でした!
何よりの美しいプレゼントに感動しました。
今年もお月様に恋して……夜な夜なのデートを楽しみたいと思っています。
三重県 Oさんのメール(抜粋)
私が住む山間部では新年の二日月が金星を従えて、まるでナイフでカーブを切ったようなシャープなお月さんがお目見えしてくれました。その後の星々の宴も見事な天体ショーでした。私はこの山間部で暮らせる事にいつもご先祖様に感謝してもしつくせま せん。毎夜、夜空を見上げて天体ショーを楽しんでおります。

昼間の三日月も!
贅沢ですね、昼も夜も空に見守られています。大晦日には、年越しそばならぬそばがきを月に見立てて、あんかけにして楽しみました。中国で言うところの「春節や」と言いましたら、「そうか、旧暦の正月か」と家族は、たいした感慨もなく、食べてました。

前回HPで紹介した宮崎の田中さんからも、「今年の二日月は薄雲にうるんでいました。近くを通過中の宵の明星もうるんでいました。三日月は見えませんでしたが、四日の月は、それは見事に輝き、一足早い金星は森の方へ。見事でした」とのお便り。全国的に実見された二日月でしたが、珍しい二日月をまとめた珍しい記録がまとめられたのは意義あることです。

増刷も間近な『月的生活』への反響

二つ目は拙著『月的生活』について。刊行は昨年1月で出版時期としてタイミング悪いときで、ボチボチ売れていくのを待とうという気分でしたが、ようやく3刷の知らせが版元(新曜社)から届きました。この本をお読みくださった最近のお二人の方のお便りを掲載します。久留米の佐野さんがこのHPに登場するのは2回目になります。

静岡市・上野絵巻さんの書評
『月的生活』を読ませていただきました。
私は現在20代なのですが、私の実家にも嫁ぎ先にも、西暦の季節の行事しかありません。
学生の頃は日本文学が好きで大学でも専攻行してましたが、やはり月暦がわかりませんでした。そこは曖昧なまま、かえって曖昧さを想像で楽しんでいましたが。しかし今回はとても興味深いお話ばかりで、久々に昔の本を開いてみたくなりました。

夏の間、石垣島にいた時にはライトダウンのイベントに何も考えずに参加してましたが、その意義も初めてわかりました。(石垣ではライトダウンしなくても深夜には毎日、港から天の川が見えましたが……)
石垣にいる時には海でよく遊び、そこで初めて潮の満ち干きを目の当たりにしました。干いてる時間に海に行っても泳げなかったり、こんな私でも大潮の日にはシャコ貝を拾いにいったり、自然と満潮や干潮時間を調べるようになっていました。その時は月の事まで考える事はなかったけれど、自然の中にいれば、自ずと身につくものなんだなと思います。
石垣ではお盆も内地とは日にちが違ったり、豊年祭というお祭りも場所によっては、写真を撮ったり私語が禁止だったり(もう少し前までは部落以外の人間は立ち入り禁止だったそうですが)、昔ながらの風習が受け継がれていました。その時に月暦の事を知っていればもっと色んな発見があっただろうと思います。
5月には初めての子供が産まれる予定なので、子供には月暦を馴染ませてあげたいと思います。
久留米市・佐野利彦さんの書評
「月的生活」おもしろく(興趣深く)拝読しました.これからも月暦を取り入れながら、自然と密着した生活を送りたいと願っています.まずは18日の旧正月と七草を味わいたいですね。

また、立春は2月4日(12月17日)ですから、今年のような年を、古人は「年の内に春は来にけり……」と詠ったのでしょうかね。

私の子供時代で旧暦(月暦)が使われていたころのことを、思いつくままに記してみます。

私は1939年、愛知県の小都市の生まれですが、中学生くらい(1950〜55年頃?)までは、旧暦がかなり使われていた記憶があります.ある時からはいわゆる「月遅れ」の節句となり、旧正月は忘れられました。
  • 旧正月……2回の正月があって嬉しかったです.旧正月についた餅は悪くならない……といわれて新正月よりも多く搗いたときもありました。
  • ひな祭り……花桃が咲く時期になって、紅白の桃の花を一杯飾った記憶があります。
  • 端午の節句……柏の葉が大きくなって柏餅を作り、菖蒲湯を沸かしましたね。
  • 七夕……夏休みに入ってから、サトイモの葉にたまった朝露を集めて墨をすり短冊に書きました.天の川が鮮やかだったことが記憶に残っています。
  • 盆……満月のもとで盆踊りを見たのが非常に心に残りました。そのうちに盆は「月遅れ盆」になりましたが、盆踊りを旧暦15日に開くのは、かなり遅くまで続いたように思います.やはり盆踊りは浩々たる満月の下で踊らなくてはいけませんね.深夜になって、若者たちは電灯を消して、月明かりのみで踊っていたようで、子ども心にうらやましいような気持ちを抱きました。
  • お月見の団子や芋などの野菜をささげた時も満月が輝いていましたから、月暦に基づいていたのは間違いありません。
などなどです。
今更太陽暦を使わずに生活することは出来ないけれど、せめて季節の行事などは月暦も取り入れて行ったらいいのに……と思っています。

月暦新年会、七種がゆを楽しみました

最後に正月行事の様を写真でご覧いただければと思います。

2006_2007月暦年越1 2006_2007月暦年越2
2月17〜18日、年越しと新年を祝う会が熱海で開かれました。詳しい様子は、この後の池田正雄さんのレポートをご覧ください
秋田出身の会員・井山さんが新年会、七種、小正月と続いた2週間の行事で料理の腕をふるってくれました。写真は七種(2月24日)に新春の七つの草々を入れた七種粥と月をイメージしたお吸い物。井山さんを介して、秋田料理、秋田の人びととの今後の出会いが〈月〉の会・東京メンバーにはとても楽しみです 2007七種その1
2007七種その2

正月行事のレポートとして、深谷の会の秋吉さんのもの、そして東京の会の池田さんには本当は会員紹介欄に登場をお願いしたのですが、正月行事がとても印象的だったご様子の一文が届きました。東京の会の行事の報告になっているので、この場に掲載しました。

〈月〉の会・深谷 秋吉裕子さんのレポート
新しい年の始まり、午前中は雨でした。車3台で下仁田大桑原の名水を汲みに、こんにゃく作りの佐藤さんのお宅にお邪魔しました。

山と川に挟まれた佐藤さんのお宅は、自然環境は決して楽なものではないと思いますが、深谷の私たちにとっても、自然を満喫できる素敵な田舎、という感じのすばらしいところでした。子どもたちは、つり橋が気に入って大はしゃぎでした。大人たちはいちおうに、佐藤さんの若さにびっくり感動しました。佐藤さんは俳句もなさるとのこと、星や月も大好きで、「月がねぇ、この川に落ちていくんだよ」と、素敵な表現をなさっていました。

昼に深谷に戻ると、急に雨はあがり、よい天気になったので、私の家の庭で、名水を生かしたバーベキュー。焼きそば、磯貝さんの粉を使ったねぎ焼き、天然酵母と磯貝さんの粉で蒸しパン、先日のパーティに本庄の山本さんと一緒に来てくれた田中さんが届けてくださった手作り味噌で味噌汁をつくり、4家族、総勢16人で楽しいひと時を過ごしました。この様子については、<月>の会・深谷のホームページに、清水さんの記事が載る予定です。
〈月〉の会・東京 池田正雄さんのレポート

2006_2007月暦年越3

(写真はクリックすると拡大します)


昨年11月3日、「深大寺十三夜」がご縁で<月>の会・東京主催の熱海の忘年会・新年会に参加した。喜んで参加した別の理由は、1941年1月28日生まれの私自身の月暦の誕生日がちょうど一月二日(二日の月)であることを知ったからである。それは過ぐる日『月的生活グッズ』月の満ち欠けクッションを注文した時に志賀さんからの電話で「池田さんの誕生日は月暦正月二日の月でとても珍しいですよ……とのお知らせによるご縁でもあった。
1月28日は家族で誕生日を祝い、プレゼントもせしめたのだが、今年は月暦の誕生日の前祝を熱海でもう一度したい。さらにもう一度誕生日を楽しもうと密かな企てをしたことだ。

2月17日・18日の予報は限りなく雨天に近いとあった。指定された「グランビュー熱海」にたどり着くと案の定小雨となりとうとう本降りの雨の忘年会の夜となってしまった。当日の参加予定者数は約15〜20人であったが予想をはるかに超え40人近い老若男女で溢れることとなった。
女性の方々を中心に男性たちも交えて、狭いこと承知のお祝い会食の準備が着々と進められ完成した。乾杯と志賀さんのご挨拶、参加者それぞれの簡単な自己紹介の後、賑やかで誠に和気あいあいの楽しく親しみ溢れた忘年会が始まった。
次々に運ばれる手造りのお料理で長テーブルはあっという間に置き場を失ってしまう。お隣席の参加者をそれぞれ優しく暖かく気遣う心配りと、歓談の輪が広がり、瞬く間に会場は永年の友達・仲間同士の座となり熱気はいよいよ昇りつめていく。当夜供された料理は、新鮮な野菜、フルーツ、盛りだくさんのサラダ、熱海の鮮魚の刺し身やカルパッチョ、同じく熱海の貝やエビその他の握り寿司や手巻き寿司、秋田料理、福島産そば粉を使った手打ち年越しそばなど枚挙に暇なしであり、外は雨だが、会場は歓声と笑い声に溢れ、美味美酒はすべての人を晦日のお祭の喜びで満たし、心地よい酩酊の夢心地にさせてしまったのであった。

当夜の余興はシンセサイザー演奏や特異な球体楽器による水琴窟の音色のような癒し系の妙なる調べやギター演奏を、蛍光灯を消し和ローソクで息をのみつつ楽しむなど、闇と光の絶妙な気分の味わいがあり、心洗われる深い感動を経験したのである。
この感懐は月夜の宙(そら)と新月の闇とに対比し符合するのではないか。私たちの心に月のある生活、月を取り戻し月の変幻の美とともに宇宙の経綸と生命の神秘とを感性豊かに味わい、かみしめることの大切さを示唆しはしないか……それは取りも直さず月と太陽の暦の存在理由とその価値を物語るはずではないか……と興奮気味の感動に浸る。

元日の朝はかなり激しい雨で、ご来光は期待できなかった。やがて雨も小止みとなり、いよいよ浜辺に出て、餅つき。樫の木の臼杵、もち米、蒸し器、ドラム缶の竈、薪などの準備が整えられ、わたし自身と多くの人たちが餅つきの楽しみを実体験し搗きたてのお餅をいただく。台湾からの新婚カップルもあり、月暦文化の彼らには正月の餅つきだとすぐに理解して自らも杵を取りよろけながらも餅つきの記念写真(制作室註:冒頭参照)を撮り歓びをともしたのであった……。

最後にお茶を飲みながらの解散のひととき、志賀さんが深い感銘をこめて言われた……「今回世話役を買って出た方々のご努力、ご協力は本当に多大でした。また、一人ひとりの参加者がお互いに他を思い隣の人の心になってよく働き、笑顔で尽くしあったことがこんなにも心楽しく豊かで忘れがたい集まりを作ったのです……ありがとう!」
この言葉はすなわちわたし自身の、そして参加者一人ひとりの“ことば”であるに相違ない。一所懸命に働き協力し協働する人達の群れの親和力こそ歓びと真の平和を創り出す、この新年会の贈り物であったのだ。

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