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月と季節の暦
月の名所十二選余話
第八話 月の名所・春日山
(奈良県奈良市)

月の名所といわれた山は、見る側から見て東側にあり、山というよりは小高い丘のような低さを特徴としている。以前「発見 月の名所」で紹介した香具山がそうだし、前回でのこの欄の朝日山がそうである。今回紹介する三笠山(春日山)もわずか297メートル。人が居住する場から近く、地平からの月の出からあまり間をおかないで観望できる低さが、観月にふさわしい条件だったと思われる。香具山でも、朝日山でも、三笠山でも、どこでも月の名所足りうる。古代人の月に対する思慕を背景として、(決して太陽ではなく)月こそが名所の条件であった。



春日山(奈良市観光協会ウェブサイトから)
『萬葉集』には三笠山の月を詠う歌が多く入っている。その中の一首、「春日なる三笠の山に月の船出づ みやびをの飲む酒圷(さかづき)に影に見えつつ」を月暦(旧暦)九月の「三笠山に出(いで)し月」の欄に載せた。数ある三笠山の月の歌の中でも、月の具体相を考えるのに恰好の素材であり、詠んでいる人はどこにいて、どんな時間帯に月を見ているか、というような情景が情報源としての月を通して想像できるからである。

「月の船」という形容は中国に由来するが、萬葉集にたくさん収められた七夕歌にも、「あめのうみに雲の波立つ月の船 星の林にこぎかくるみゆ」のように生かされている。(月暦の)春先、西の空に立つ三日月を見ると、この「月の船」が文字通りの直喩であることが実感として理解されるだろう。

注意する必要があるのは、「月の船」は別に三日月に限らないこと。今あげた七夕の歌は七日の月を謳うものだし、芭蕉が謳った「明けゆくや二十七夜も三日の月」にあるように、三日月と逆の形状の二十七夜や二十八夜の月もまた、実際にご覧になったら分かるように、「月の船」そのものである(「志賀勝から一言」第七十九回参照)。初めて見える新月から上弦ごろまで、下弦ごろから晦日の前に見える月がこの形容にふさわしい月といえようか。

さて、先の「春日なる三笠の山に月の船出づ……」の「月の船」は三日月のことだ、と注釈するのは岩波書店の新日本古典文学大系。しかし、この注釈はとんでもない。三日月というのは、正確に言えば月暦の三日に限定された月のことで、三日月という言葉を使った瞬間に、それが出る夕方から宵という時間帯や西の空という方角が限定される。この注釈を信じたら、夜がはじまったころ酒宴が行われ、杯に月の影が入った光景を想像してしまうことだろう。方角について同じ注釈は、「春日山を東に望む平城京で作られた歌であろう」といっている。これは正しい。だとすればよけい三日月はおかしいことになる。以前、朝日新聞の連載小説で京都・東山に三日月が上がると書かれていた間違いを指摘したことがあったが(こちらをクリックして参照)、これと同じ過ちを冒していることになる。平城京から見て、春日山に三日月が立つことはあり得ないから。ひょっとしたら注釈者は、現代人一般の誤解のように逆三日月を三日月と安易に混同しているのかもしれないが、そうとしたらその混同は学問としてまったくおかしい。芭蕉の句も理解できないだろう。

三笠山(春日山)の月を謳った萬葉歌は満月ごろと思しきものが多い中で、この歌は下弦以後の「月に船」の形状の月を扱っている点で異色である。下弦の月が上がるのは午後11時ごろ、二十七夜となると夜中2時過ぎということになり、作者は東側の山から上がる月を眺める位置にいる。ところで、月の影が杯に入るには月が一定の高さになければならないから(したがってここでも西に落ちていく三日月の影が杯に落ちるという光景は、試みたことがないが、多分無理だろう)、詠まれたのは早くても夜半ということになる。このような判断が下せることが、月を知っていることの利点である。古典のさまざまなものに応用でき、従来の解釈のさまざまな過ちが理解できるのも面白いことである。

*   *   *

三笠山が月の山であり、春日大社の信仰は月信仰をバックボーンに成立していったのであろう、という見通しのもと2011年版「月と季節の暦」九月の項を編集したが、この点についてさらに付言しておく。月信仰は春日社のもともとの由来だったと思われるが、以下に記すのは平安時代以降の新たな展開について。

春日大社にて
春日大社にて撮影
『春日権現験記絵』という絵巻がある(鎌倉時代末期に成立 中央公論社刊 各地の図書館に入っているはず)。絵巻の詞書(ことばがき)冒頭は、春日大明神は満月円明の如来、と書き出され、月光の美しい三笠山に鎮座した由来が紹介されている。さらに本文中のさまざまな説話のモーメントとして月が登場しており、月を特別なものとして位置づけていることが確認できる。

この春日大明神が貴女の姿をとってはじめて人間の前に現われたのは今の奈良県西部にあった平群郡(へぐりのこうり)にあった竹林で、夜な夜な光るところに現われて藤原氏の一人に子孫繁栄を告げたという伝承を詞書はきしている。貴女は、「我が屋戸(やど)は都の南鹿の住む 御笠の山の浮き雲の宮」と歌ったというが(平安時代の伝承だから、京都から見て三笠山は南である)、この宮は月宮を意味しただろう。

しかし、竹に現われた貴女が月からやって来たとは明示されていない。しかしながらこれが月からの天女であり、かぐや姫に直結するものであることを考察したのが昨年刊行された保立道久『かぐや姫と王権神話』(洋泉社歴史新書)。暦を編集しているときには未見だったが、この本を通し、月の天女という古い信仰をもとに『かぐや姫』が成立、さらに春日社信仰にも流れ込んでいったらしい見通しが大分明るくなった。

古代に月を意味していたと思われるウカとかウケ(トヨウケとかウカノミタマというように表現される)が同時に水に関わる神格であり、作物・農業に関わる神格であることもますます明らかになりつつある。隠されているものを意味するのは「オカルト」だが、現代は次々と月という隠されたものに光が当てられる時代となった。日の目ならぬ月の目を見るとでも言おうか(笑)。長いあいだ、私たち人間の意識下に封じ込められてきた月への思いが、まさに意識として捉えられる時代になったのである。

(辛卯 月暦九月二十六日=2011年10月22日記)

☆ 保立さんはかぐやのかぐは火山の神に関わるという新説を提唱している。しかし、かぐは月明かり、そのかがやきを意味していると思われる。これについては改めて論及することがあろう。

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