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第五回 月の望月(長野県佐久市)その5(最終回)

(暦の仕事や〈月〉の会の催しで慌しい時期が続き、連載を終えるのがやっと今日になりました。続きをお待ちくださっていた方には大変申し訳ありません。どうぞ今一度連載五回の全編を通してお読みくださればと願います)

(前回ページへのリンク)

*   *   *

月の暦と望月

和歌の世界で古代末期から詠まれた「駒牽」は、俳諧の世界にも引き継がれて秋の季語となった。そして「望月」は歌枕のように親しまれる地名となった。江戸時代の初期、向井去来は「駒ひきの木曾やいづらん三日(みか)の月」という句を作ったが、『去来抄』にあるように、この句は紀貫之の「今や越ゆらん望月の駒」というのを襲って「木曾やいづらん三日の月」としたものであった。去来の師であった芭蕉は、「この句はさん用(算用)をよく合せたる句なり」、つまり三日月の日に木曾を経った駒牽が逢坂の関に至る日数を数えて作った句だと笑ったという逸話が残されている。


広重「望月」

広重「望月」
(木曾海道六拾九次より)

江戸の後期天保年間(1830から1843年)に描かれたといわれる安藤広重「木曾海道六拾九次」は中仙道の宿場や行路をたどった連作だが、「望月」の一作には日が落ちて満月だけを頼りに松林の道(瓜生坂とされる)を急ぐ旅人が描かれている。
見事な松林だったという松はその後枯れ始め、残った樹齢四百年の最後の一本が伐られたのは1938年、その木は大伴神社の梁に使われたという。中仙道の衰退を象徴する出来事だったといえよう。宿場町であったからこそ人びとに喚起されてきた月の名所としての望月は、月の暦(旧暦)が廃止されることによって忘れられるようになった月の存在と運命を共にするかのように忘れられるようになっていった。望月が再発見されるためには、行き詰った現代が過去を見直す時期の到来、とくに月に関心が向けられる時代を待たなければならなかった。月への関心が高まれば高まるほど、望月という土地はその独特な月の神話、月と共に歩んだ歴史を財産に人びとを魅了させることになっていくことだろう。

ふたたび、月輪石考


写真1

(上)写真1、(下)写真2


写真2
連載の最後に訂正。月輪石として当初紹介した石は伝承されてきた月輪石とは異なるものだった(写真1)。「望月町づくり研究会」の竹内健治さんが正しい月輪石を探し出してくださり、それは何と城光寺の入り口に人にかえりみられることもなく、ぽつねんと置かれていただけの石であった(写真2)。地元におられる方だからこそ探すことができた発見であった(竹内さんは本業和菓子屋さんで創造的な和菓子作りに励んでいる)。

誤解した石も月を想起させるものだったが、今のところ由来が不明で、不思議な石というしかない。正しい月輪石は、薄くなっているものの白い輪が認められ、この輪こそ「岩の上に御影が残った」と記された霊石であることの証しなのだろう。ただし、『御牧望月大伴神社記』の記述にしたがえば、ツキヨミは一奇巌に登り、この奇巌と影を残した石は同じものらしいから大きさがそぐわない(この奇巌、戦後間もなくまで存在していたが、前に述べた通り残念ながら毀(こぼ)たれてしまった)写真。月輪石は1メートルほどのごく小さいものである。

この矛盾を考えるには次のことが参考になる。8月に岡山に講演に出向いた機会を利用して、県中央図書館で以前名を挙げた三浦秀宥「月の輪伝承の系列について」(「岡山民俗」11号、1954年)を閲覧した。月輪田が岡山はじめ各地に存在していたことを追及した労作だったが、この論文の中に同県苫田郡にあった「月影石」を紹介して四尺(約120センチ)ほどのその石は円月のような影があったので月影石とされ、古来石のある土地を耕す者は災厄にあうとされた神聖な存在だったと紹介されている。望月の月輪石に見られる輪の形状と同じであり、大きさも同じくらいである。このように月を想起させる印をもつことが月の石と崇められる理由だったことが分かるのである。大きな奇巌がはじめは月の石とされた可能性が残るが、月輪石がいつの時代からか月の石であったことは疑いないだろう。他の地域においても同じように崇められた月の石が存在したのではないだろうか。沖縄の失われた石はどうだったであろう?

月の石が信仰の対象になったのは、水を恵み、食料をもたらすのは月であるという直感をもとにしたそもそもの信仰があったからである。佐久市望月の歴史に記されたさまざまな月の相は、その始原の思いを土台に満ち欠けを繰り返しているのである。

奇岩があった場所
ツクヨミが立ったとされる奇岩があった場所。岩が壊される前の当時の情景を知る人の話では、実に大きな岩で、子どもの遊び場所になっていたという。清水は今も湧き出していて、農水路に導かれている。聖なるこの清水を適切に保存して生かすことが必要と強く思われた(望月町岩清水にて)。

次なる未知へ

甲午年(2014年)の中秋名月。私たち〈月〉の会・東京のグループは、「月輪石巡礼──佐久市望月のミステリーを解く」のタイトルのもと、望月地元の「町づくり研究会」の協力を得て、月の神話を現代に保存する月輪石、大伴神社、神社創建の場所でありツクヨミが立ったとされる岩の跡地と清水が湧き出た鹿曲(かくま)川畔を一泊旅行で訪ね、待宵月(十四夜)(西暦9月7日)と中秋名月の十五夜(同9月8日)を観賞した。

私たちはよく「月待ち」という時間を過ごすことがあるが、これは月の出前から月を待ち、月を観賞しようという試みである。月待ちは、二十三夜待ちとか二十六夜待ちのように、かつて津々浦々で行なわれていた月信仰を母体とする風習だったが、現代の私たちにもいくぶんかはその気配がありつつも、一期一会の素晴らしい光景に浴したいという願望が主な動機の、特別な時間の過ごし方である。待宵月の月待ちは雲に阻まれたが、望月の老舗旅館・山城屋の大広間で開いていた地元の方々との懇親会の最中、風格ある古建築に樹間から皓々たる月光が差し込んで私たちを歓ばせた。一方、十五夜の名月は、一部の人だけが見ることができたミステリーさながらの幻の月だったが、東京への帰路の間中味わうことができた。

その後地元の方から、佐久市岩村田に伝わる「皓月の輪」という説話を教えていただいた。これまた月を巡る貴重な話であり、ツクヨミではなく月の女神が関係している。望月から同じ市内の岩村田に話が移っており、広範な地域全体が月を特別な存在としていたかが分かってくるかもしれない。月のミステリーを一つ解明した後で、また新たな月のミステリーが浮かび上がってきた。ミステリーの二章目を報告することがいつかあるかもしれない(了)。

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