真矢 修弘
十和田湖上の観月
十和田湖の湖上に舟を浮かべて月の出を迎える――時は旧暦卯月の十六夜(6月1日)の満月の夜――この、なんとも風流の極みともいえるアイディアに、私もまず魅かれた。
十和田湖に日も落ちかかる夕刻7時ごろ、湖畔の宿を出、あらかじめ宿で用意してくれた和船に乗って湖上に出た。まだ日も落ちる前の薄明かりが残り、湖畔の山並み・山影もはっきりと見えるころであった。さいわい好天に恵まれ、風も雲もない、月見にはうってつけの日和であった。
やがて日も落ち、周囲の山影も黒々としてきてから、目ざす月の出を迎えるまでの時間は、実は、それから延々2時間近くもあった。当日の地平線上の月の出は7時半ごろということであったが、湖畔を囲む山々の峰が思いのほか高く、待ちわびた月が山の端から顔を出したのはなんと9時少し前であった。
月の出る山の端の一点を、総勢20人ほどの参加者が今か今かと一心に見つめ、山の端がほんの少しでも明るむといよいよかと思い、それが何かの間違いだとわかってもまた気をとりなおし、ときにはいじわるな雲が峰にかかりもし、そうやって、ひたすら月の出を待ったのであった。
ただし、月を待つ間の舟の上には、宿の配慮で酒と肴が用意されていた。地元産山葡萄の手造りワインもあれば、採れたての皮つき姫タケノコを、舟に持ち込まれた昔ながらの七輪で焼いて蕗味噌で食べるなど、珍味佳肴のもてなしという、うれしい趣向もあった。
それ以上に私たちを楽しませたのは、真っ暗な湖上の空いっぱいにくり広げられた見事な天体ショーであった。ふだん見る夜空にくらべ、周囲が真っ暗で空気も澄んでいるから、実に鮮やかに星が見える。
日が沈むとすぐ、西の空に宵の明星(金星)がくっきりとただ一つ輝き出す。それから順次、東には木星、中天には北斗七星、といった具合に、さまざまな星が現れ、星に詳しい人が位置や探し方を教えてもくれる。月の出る位置は、東の山の端のすぐ上で、木星とスピカという二つの星の真ん中あたりだと教えられてからは、だれもがその方角にだけ目が釘づけになった。(余談になるが、私の知人がその星の名をつけた出版社をつくったと最近知ったばかりでもあり、星の名をあまり知らない私の記憶にも残った。)
そして、いよいよ凝視していた山の端が刻々と明るさを増し、ちょうど日食のコロナのような明るさに縁どられたとき(実際にコロナの光度は満月の約半分なのだそうだ)、待ちに待った月が、皓々と輝く姿を見せ、その瞬間には、舟からどっと歓声が上がった。だれもが、満ち足りた安堵の気持ちに包まれた。
ひたすら月を待つだけの、月待ちというこのような充実した時間の密度というものを、少なくとも私はかつて経験したことがない。幼児のみのもつ黄金の時間のようでもあったし、この上なく素朴で贅沢な大人の遊びであった。私にせよだれにせよ、月をこんなにまでも待ち焦がれたことがあっただろうか。
圧倒されるような新緑の美しさ
湖上観月会の翌日は、宿の経営者夫妻の案内を得て、十和田湖畔の美しい新緑の森に分け入り、奥入瀬渓流を巡り、いまだ残雪のある八甲田山麓をミニバスで経めぐる、弘前まで半日の旅であった。前日の八戸から蔦温泉を経て十和田に至るまでの約半日の行程と合わせも丸1日、必ずしもそれほど長い時間をかけた自然探勝ではなかったはずであるが、私にとって、これほど新緑の美しさというものを痛切に感じさせられたことは、実際これまでにない。
東北はもともと好きでもあったから、各地に一通りは足を運び、私はすでに東北をよく知っていると思っていたのに、この圧倒的な新緑の美しさに接して、自分のまるで知らない東北があることを初めて知ったような気がした。むしろ東北と一口に言うよりも、今風に言えば北東北というべき地域の特殊性なのか、あるいはこの季節に特有の現象なのか、今年が特にそうなのか、その委細は今でも私にはよくわからないままであるが、とにかく緑が美しい。そもそも東北がこんなに緑ゆたかな土地だとは思いもよらなかったということかもしれない。その思い込みのようなものも、あったのかもしれない。しかし、それだけではない何かであったのだと思う。
それというのも、私はこの旅に先立って5月の連休明けごろの信州・乗鞍岳中腹での1泊を皮切りに、種々の偶然の重なりにより前後約1か月の間に、九州の壱岐・対馬への旅、そしてこの青森の旅のすぐ翌々日には山形・秋田県境のとある山に登り(私はけして山男でも特別な自然愛好家でもないのだが)、1週間後には関東の箱根芦ノ湖周辺の森を数時間ほど歩くという、私自身としても、これまでになく目まぐるしい旅の連続を経験したところであった。信州はむろんのこと、壱岐も緑に包まれた島であったし、対馬はまるで信州か甲州に来たかと思うほど山また山の島であった。箱根の森も美しかった。
しかし、ほぼ同じ時期の自然に接したその経験に照らしても、ここでの新緑と自然は際立った美しさであった。そのみずみずしさに、強い印象を受けた。
総じて言うなら、爆発する緑というべきなのか、萌える新緑というべきか、緑したたる若葉がまばゆく輝き、緑が目に沁みる感じである。それを自然の息吹というのかもしれない。つまりは自然の発する生命力が伝わってくる感じなのだ。北国なればこその、一気に萌え出ようとするエネルギーの発露なのか。
また、緑色もけして単色ではなく、さまざまな色合いの緑が濃淡さまざまな織物のように、あるいは緑のグラデーションといった感じで入り交じるので、あたかも秋の紅葉のそれのようでもあり、地元ではこの時期の新緑をいみじくも「春もみじ」と名づけていた。
それらすべての現象が、この地域の植生の特徴や樹木の種類と関係があるのかないのか。あるいはそれこそが地勢とか地力とよばれるものの本質なのであろうか。
私はもう少し、この地域の自然を知りたくなった。
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と、ここまで書いたあとで、私は重大な事実を見落としていたことに気がついた──私たちが新緑の森を見たのは満月のときだったということを。満月のとき、海でも潮が満ちるが、木々や植物もまた水を吸い込み、最大限に水を孕ませるのだということを。それがあの「みずみずしさ」の秘密だったのか……。
それから、もう一つ、この地域の森がいわゆる縄文の森だったのではないか、という事実にも思い至ったが、そのことについては、いつか考えてみたい。
(まや・のぶひろ/整体法実践家)
(写真も本人、舟写真を除く)
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