芭蕉の句ではありませんが、弟子たちの句で二日月や地球照を詠んだユニークなものがありましたので(『校本芭蕉全集』富士見書房版、第七巻俳論編に所載)、まずそれらから紹介しましょう。
凩(こがらし)に二日の月のふきちるか
作者=荷兮(かけい)
二日月を詠んだのがこの句ですが、二日月の句はごく珍しかったらしく、意外感をもって受け取られたようです。凩吹きすさぶ冬や初春ごろ、二日月はよく見られることがありますが、寒風に耐える、か細い頼りなげな月の情景が目に浮かぶようです。後年、蕪村の句に「八朔や扨(さて)明日よりは二日月」があります。
薄々(うすうす)と底のまるみや三日の月
作者=己百(きひゃく)
この句は、多分地球照を捉えたものと思われます。地球照は、私の言葉では「満月を夢見る月」のことですが、細い月にもかかわらず地球から届く光によって満月の形が浮かび上がる幻想的な現象。「薄々と」の言葉にその感じがよく出ていますが、満月型を言うのではなく「底のまるみ」が強調されている表現にちょっと悩みます。この句は月暦六月の三日に詠まれたらしいのですが、六月の三日月は割合立ち上がっている形ですから底辺部分が円くなっているのは確かに地球照でしょうが、底辺部だけハッキリ見えていたのでしょうか?
駒牽(こまひき)の木曾や出(いづ)らん三日の月
作者=去来
朝廷に献上される現長野県などの馬が八月十六日に逢坂関(おうさかのせき)で駒迎(こまむかえ)される年中行事があり、これはその行事を踏まえたもの。木曾を旅たつ駒牽が三日月に日に出発すると十六日の十六夜の日には逢坂関に着く計算になるということで、日付ではなく月の形を思い浮かべながら行程を想像させる面白い句です。
さて、「月待」に関係する芭蕉の句ですが、以下の二句知られています。一句目は月待行事に招かれた山伏の姿を詠んだもので正月にどこかで営まれた月待行事を背景としたものでしょうが、二句目は芭蕉自身が月待をして成った句だという点できわめて重要なものです。
月待や梅かたげ行(ゆく)小山ぶし
手をうてば木魂に明(あく)る夏の月
それぞれの句には月待について以下のように注がほどこされており、混乱が見られます――
前の句の注――「月待は三・十七・二十三・二十七日の夜に
人を招き月の出を待ってこれを拝する習俗。」
後の句の注――「江戸時代には「月待ち」の風習があり、
十七夜・二十三夜・二十六夜は、
夜明しをして月を拝んだ。」
このように、月待の日付についても、月の出を待つ行事か朝まで夜明かしをする行事か、等々が統一されておらず、読んだ人間にとって月待がどんな行事だったかをイメージするのは非常に困難になっています。
月待の習俗が現代の私たちには理解ができなくなっている一例ですが、今はその問題は措(お)いておいて、芭蕉自身が月待を体験して詠んだとされる、手をうてば木魂に明る夏の月、の解釈についてだけ従来のものと違う解釈もあり得るので一言してみます。この句は「嵯峨日記」に掲載されているもので、手をうてば木魂に明る下駄の音、とあったものを消して記されているそうです。そして注釈には、「下駄の音が静かな夏の朝の空気の中で反響して聞える情況だったのを、下駄の音ではなく、手を打つ音にして、暁の月が消え残っている情景に直した」とあります(前記芭蕉全集第六巻)。
日時は1691年の月暦四月二十三夜のことですが、西暦に直すとこの日は5月20日で、この夜の月は日付が変わった0時43分に出、南中6時22分、12時8分に入り。南中時月齢は22.5。朝方には月は南の空にあることになります。
月待とは文字通り月の出を待つことであり、月が出る前を忌みの時間として過ごしたり、共同体の寄り合いをしたりして過ごす習俗で、月信仰を土台とした行事といえるものです。したがって、月の出から大分たって南にある月に向かい拍手を打つ光景は場違いなような気がします。むしろ、0時43分に出た月に拍手を打って拝んだとするのがふさわしいように思えます。「明る」という言葉は、夜が明けるの意味に引きづられるのではなく、忌みが明けるの意味に解釈したらどうでしょうか。
以上は試論であり、朝の情況だとする具体的な資料があるなら訂正しなければならないことですが、月狂いだった芭蕉が庶民の習俗であった月待にも敬虔に関わっていたことを示している句なので、その内容がより明らかになればと願います。ふつう月待は正月、五月、九月、あるいは七月や十一月の行事が多く、四月にも二十三夜月待が営まれることがあったのかどうかなども今後追求していければ面白い課題です。 |