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芭蕉と月(承前

「あけゆくや二十七夜も三日の月」の問題からはじめて思いつくまま「芭蕉と月」を綴ってきましたが、芭蕉と月を考える時欠かせない題材を提供して三回目の今回で終えることにします。

「三(み)よさの月」もしくは「三夜の月」

表題のそれぞれは三日間の月見ということですが、芭蕉自身の表現ではなく、弟子たちのもの。三夜連続の月見を病弱だった芭蕉が生涯二度弟子と一緒に試みたというのは重要な事実で、月狂いの芭蕉の姿を伝えて貴重です。一回目は1688年(貞享五年)更科(現千曲市)で仲秋名月を初日にして三日間、そして二回目は1691年(元禄四年)琵琶湖南岸の堅田などで仲秋名月をはさむ三日間行われたもの。発句や俳文に慎重を期し寡作だった芭蕉ですが、これらの三日間は多産で、有名な発句がたくさん生まれたことも特記されることです。

1688年の仲秋名月は西暦では9月9日。この日の月の出は17時45分(中央標準時)。翌日からはそれぞれ30分後の月の出となりました。

1691年の仲秋名月は前回に近い9月7日。月の出は17時42分。待宵の前日は17時18分、十六夜は18時5分が月の出でした。二回とも、月はやや南に寄った東側からの出でした(1688年十七夜の月は真東)。

現代の私たちに三日間の月見を試みる物質的、精神的余裕はあるでしょうか? 考えさせられます。

「有明の月」について

有明の月は、十五夜を過ぎて出も遅くなる代わりに入りも遅くなる十六夜以降に一般に使うことができる表現と思われますが、使う人物によって理解がまちまちという可能性もはらんでいて、なかなか厄介です。

芭蕉の理解は非常に幅の広いもので、「おくの細道」冒頭の「弥生も末の七日、月は有明にて」でその広さが分かりますが、芭蕉が考えていた可能性がある幅に―「朝(あした)の月は十七日より廿八日まで也」というのが蕉門の土芳著「三冊子」に載っていて参考になります。

十六夜は満月に当たることもよくあり、月の入りの時間も日の出時刻と接近している場合もあり、他方十七夜の月となると8時前から8時台にかけて安定的に有明となるので、今日でも有効な考え方といえるものです。

四条の納涼について

京都市の四条河原では今日も夏の納涼の場となっていますが、これは古い由来をもつもので、芭蕉の時代には月暦六月七日から十八日にかけての盛夏にちょうど祇園祭真っ盛りの時期にも重なり、七日の夕月夜から十五夜をはさんで十八夜まで、月のリズム・月の暦の生かされ方がよく分かる日程になっていました。

芭蕉に、「四條の川原すゞみとて、夕月夜のころより、有明過(すぐ)る比(ころ)まで、川中に床をならべて、夜すがらさけのみものくひあそぶ」という俳文があり、作品「川かぜや薄がき(うす柿色)きたる夕すゞみ」の詞書になっています。月のリズムで俳文を綴っているのも重要ですが、300年以上前の四条河原のにぎわいが目に浮かぶようです(前項のように十七夜以降を有明とするなら、「有明過る比まで」の表現が生きます)。

『校本 芭蕉全集』はこの俳文に注して、川原すずみは「夕月のかかるころ、すなわち月の初旬から、有明月のころ、すなわち月の下旬まで」としていますが、十八日までだったら「月の下旬まで」はまずいでしょう。その後に、「また夜通しととれぬこともない」として、芭蕉の文が一夜の出来事と取れないこともないという理解を示しています。夕月夜が有明になるわけもなく、夕月夜から有明というのは日々の月のリズムの経過を述べているのですから、この注は明らかに余分、というより誤り。後学のため一言しました。

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