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月と季節の暦
志賀勝から一言
(2011年11月23日)

今回の一言欄は、中国地方の曹洞宗青年会大会で行なった講演の話、雑誌「エプタ」の月特集の話、〈月〉の会・東京が行なった七夕以降の行事の写真報告を掲載します。ちょっと長くなりました――

「日本は、何故月暦を手放した――」


チラシの表
チラシ裏面

(各画像はクリックすると拡大します)

インパクトのあるこの文句を冠した案内チラシは、中国曹洞宗青年連絡協議会主催の石見大会のために作成されたもの。大会は11月10日の十五夜満月の日に開かれた。大会で私は講師役を務め、3時間近い話を聞いていただきました。

チラシの裏面もまた、インパクトある文面が綴られています――

「太陽暦を主体としている現在の状況というものは、祭祀や行事のみならず、実生活においても実は、様々な混乱を引き起こしていると言え、結果としてそれは、地域の伝統文化の衰退や、地域コミュニティの崩壊といった現代的事象にまで影響を及ぼしていると思われる」。

西暦で行事を営んでいることに居心地の悪さを感じ、月暦(旧暦)の喪失と復活を自らの問題として捉えて、明治以降の百数十年の日本のゆがみをズバリ指摘した問題意識であり、私の問題意識そのものでもあります。

会場にて講演する志賀
講演テーマは「月暦と祭祀――古の心を求めて」で、五節供の問題から始めて正月行事やお盆行事、朔(さく)の日と十五夜に当たる一日と十五日の重要性、さらに仏教と深く関わる涅槃会や仏生会(潅仏会ともいう。花祭りとして広く知られる。フォークロアでは「卯月八日」という)、六斎日(ろくさいにち)などの過去と現在について話しました。

以上の行事はすべて月と季節が関わり、月のリズムの暦をもとに行なわれてきたもの。このようないわゆる伝統行事を回顧することは近代日本のゆがみをただす上で不可欠なことで、行事が実現しようとしていた内面性、魂まで踏み込んで考えていく必要があります。

以前壱岐で講演した際、私と同年代の方から聞いた思い出は印象に深く残っています。それは仲秋名月のときの「月見ドロボー」についての話でしたが、地域に二組あった「悪ガキグループ」が名月の夜にお寺に忍び込んで月見団子を盗み取る風習についてでした。子ども時代の輝かしい悪戯を語るその目が輝いていたのを忘れることができません。全国の各地にこの「ドロボー」の風習はありましたが、この風習が子どもの自立を促し、明日からはドロボーはいけないけれど今日だけは許されているんだよ、といっているような社会の約束事を知らしめる役割を担っていました。その社会性の実現を、何よりもワクワクするような興奮の遊びとして仕組んでいたのがかつての日本の見事なフォークロアでした(読者はこの風習と、近年日本に押し寄せてきたケルト由来の「ハロウィン」と比較することができましょう)。

十日夜(とおかんや)という関東での行事(※)についても、体験者から輝かしい子ども時代の思い出として語る話を聞いたことがあります(十日夜は西日本で猪子行事として知られているのと同じ)。子ども時代に体験したことが生涯の財産になっている、ということとともに、風習が絶えたことがどのようなマイナスになっているかを考え込ませる体験談です。

※ 先日、秩父地方で十日夜の行事を復活したところがあるという報道に接しました。その土地では何十年ぶりのことでしょう。子どもたちは、「十日夜、十日夜、十日夜のわら鉄砲、大豆も小豆もよく稔れ」と歌いながら楽しそうに棒状のわら束を振り下ろしていましたし、それを見ている老人らのニコニコ顔が映っていました。ただし日取りは、十日の月の出る日ではないようでした。

伝統的行事を回顧するということは、ゆがんで風化してしまった今日の有り様を何とかしたいということで、地域の行事やお寺の行事が一つでも可能な形でよみがえればと切に願われるのです。「月と季節の暦」は仏教各宗派のお寺で利用くださっています(浄土宗本山の「知恩」でも長く「月と季節を楽しもう」を連載していて、その反応も大きいものがあります)。仏教は月と密接な信仰体系であり、月暦ではこれまでさまざまな寺の月暦行事を紹介してきました。未紹介のものとしては、九月二十六夜を伝統通り営んでいる浄土宗のお寺(茨城県・常福寺)、十三夜を復活している天台宗のお寺(兵庫県・鶴林寺)などあり、私がつかんでいない寺も多くあるはずです。

月と月暦の復活に果たす仏教の役割は今後ますます自覚されていくことでしょう。今回の講演を聞いてくださった曹洞宗の方々は30代、40代の若い僧侶たち。この若い方々が行事の再興に一歩踏み出し、一年後、数年後に古くて新しい行事にチャレンジしてくださることを願わずにはいられません。

曇りがちの予報だったので半ばあきらめていた月でしたが、夜半になって記念の顔を見せてくれ(しかも月華に包まれていました)、若いお坊さんらと共にしばし月見を楽しんだ日でした。

月を介して、道元に会う

講演する志賀と道元の肖像
志賀の後ろに道元の肖像画。場所は前項記事を参照

道元の『正法眼蔵』は読み通すことがなかなか難しい本ですが、漢文が生の形で引用されているので、中国語をやった人間には少しは読みやすいところがあります。しかし難解は難解で、「都機」(万葉仮名で月のこと)の章も理解が難しいところがありました。曹洞宗の大会に副住職がいらしたという成興寺(岡山・津山市)の小倉玄照さんから、この「都機」を解説した文章を送っていただきました(同寺内で発行の「ねんげ」誌)。

「心月」とは道元の重要な概念ですが、仏教一般が「心の月」というものに特別な思いを抱いています。完全な円い月、澄んだ光を持つ月は、あたかも人間の希求する真実そのもののようにシンボライズされてきました。今、ココロノツキと言いましたが、小倉さんは道元の言う心月はココロノツキと読んでは心と月が別物になるので、これをココロハツキと読むべきだとしています。心と月が一体としてある境地。たしかにそれは、ココロノツキから一歩飛躍して、存在が宇宙と化する高次の境地ではとハッとさせられ、勉強になりました。

「エプタ」誌に寄稿


「エプタ」54号
月の大特集を組んだ「エプタ」誌が届きました。ちょうど10年前のこと、ANAの「翼の王国」が「上を向いて歩こう」というタイトルで月特集の先鞭をつけ、それ以来10誌を降らない雑誌が月の特集を試みてきました。近年は特集を組む雑誌が少なくなりさびしく思っていましたが、この「エプタ」誌が久しぶりの大型特集「月天心」を掲げての刊行物になります。雑誌全体が特集に当てられていて壮観です。月に関心ある方には必備のものとなるでしょう。

私もインタヴュー構成「月の暦と人の暮らし」で参加していますが、〈月〉の会関係でも発足から間近い「松江月の会」の宍道湖の夕日ばかりでなく月の松江を目指す活動や、マルチ芸術家の福井泰三さん(京都)の仕事などが紹介されています。月待ち行事を追った野本寛一さん(民俗学者)や森光伸さん(写真家)の月写真も読み応え、見応えがあります。科学畑のインタヴューも多く、これらも読み応えがあります。

編集後記に、「東日本大震災で被災された皆さまのなかには、十五夜の月に復興を祈った方もいらっしゃるそうです」の一文がありました。再生のシンボル=月が時代の友となっていくことを念じて止みません。

(「エプタ」誌へのお問い合わせは、エプタ編集室 http://epta.main.jp まで)

最近の活動報告

〈月〉の会の活動紹介を怠ってきました。七夕以降の諸活動を写真報告でお届けします。
(各写真はクリックすると拡大します)


西伊豆での七夕行事
七夕(西暦では8月6日)は西伊豆のペンション・へだ岬で開いた。海に面した諸口神社の鳥居で神事と催しを営んだ。

白山ヒメ神社にて
白山登山の集合写真
八朔(8月29日)をはさむ8月28日から30日、〈月〉の会・加越能主催の
催しに東京の会からも参加した。写真は八朔当日、白山ヒメ神社(*)で
村山和臣宮司の講話風景と、白山登山(白山への入り口だけですが)の
集合写真。*:ヒ=比、メ=口偏に羊


オフィスで仲秋観月会
オフィスで開いた仲秋名月観月会の乾杯風景(9月12日)。
窓の向こうに名月が見える。


深大寺十三夜
九月十三夜(10月9日)、東京・調布の深大寺で恒例の十三夜月見会。
東京では今年、仲秋も十三夜もいい月に恵まれた。境内の石段中央
には、東日本大震災の犠牲者たちを悼む大きな位牌が置かれた。


井戸尻考古館へ小旅行
長野県の井戸尻考古館へ小旅行(10月30日)。前館長・小林公明さんの
解説をうかがいながら、月への想いが縄文時代に根ざしていることを
確信できたいい旅でした。写真は当日の中村香奈子さんの笛演奏。


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