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月と季節の暦
月の名所十二選余話
第四話 田毎の月
(長野県千曲市姨捨)

月暦(旧暦)のカレンダー「月と季節の暦」の四月の項には、月の名所として著名な「姨捨(をばすて)の月」、「田毎の月」で知られる姨捨にある長楽寺、そして棚田「四十八枚田」を紹介し、写真と解説を載せた。

『古今和歌集』に載った「わが心なぐさめかねつ更科や をばすて山に照る月を見て」(読人知らず)を『大和物語』(10世紀)が姨捨伝説に結び付けて以来、姨捨は徐々に有名になり、月の名所として人びとを惹きつける土地になっていった。

広重「田毎月」
安藤広重が描いた田毎の月。2003年版の暦で広重特集を組んだ時の一点
さらに、四十八枚田の棚田は16世紀から作られ始めたとされる。田植え前の水を張った水田に満月が移っていく様が風流なものとして「田毎の月」と名付けられ、こちらも全国に名を響かせていった(四十八枚田では今でも伝統農法を守って農作業が続けられていて、昔の田植え時である芒種 ──ぼうしゅ、二十四節気── が近づき、まもなく田植えが行なわれることだろう)。

長楽寺境内にある巨石(姨石)に座って名月を観賞するのが昔からの習いだったが、この巨石に隣接してケヤキの巨木が立っている。樹齢千年とされるこのケヤキにキャプションを付して、「ケヤキの古名は槻、月の木である」と暦で紹介した。

ケヤキが月の木であるとはどういうことか、意外に感じた方も多いはずで、ご存じない方が大部分と思われる。以下長い文章になるが、その歴史的由来をまとめてみたい。

槻の木と月の話

東京でケヤキ並木といえば表参道、府中の大国魂神社に至る参道が思い浮かぶ。全国の各地に並木や、樹齢や大木で有名なところがあるだろう。とてもポピュラーな樹木である。

ケヤキは古く槻(つき)といった。大槻さんとか大月さんという名があるが、これからまとめる話は人名や地名に残る槻=月という言葉に関係する話にもなる。

『萬葉集』で槻は七ヶ所確認でき、梅や松などとともに古代人にとって重要な樹木だったことが分かる。岩波新古典文学大系『萬葉集』では槻について、「その木の高さと形の美しさから特別視され宮の名となったり樹木が宴の場とされたらしい」と注釈している。特別視というのはその通りだが、これではまだ過小評価。槻は聖なる木、世界樹であり、しかも槻は月と同音であって月と同一視された。古代の月信仰を象徴する木であったことを以下考えてみる。

『萬葉集』より――

(1) …… うつせみと 思ひし時に 取り持ちて 我が二人見し
走り出の 堤に立てる 槻の木の
こちごちの枝(え)の 春の葉の しげきがごとく
思へりし 妹にはあれど……
(巻第二、210)

これは通しナンバー210の長歌の一部で、春に萌え出たケヤキのたくさんの若葉のようだった妻の死を悼む歌。この長歌に添えて次の短歌がある。「去年(こぞ)見てし秋の月夜(つくよ)は照らせども相見し妹はいや年離(さか)る」(211)

長歌に対する反歌(短歌)には、長歌の要約、補足、強調の意味があるとされるが、短歌に長歌にない月夜がなぜ出てくるかといえば、槻が月でもあるからである。そして、(1)で二人が見た槻は月の明かりの下であったことが(2)から分かる。天井の月と地上の槻が一体だからこそ作品世界が成立している事情が判明する。

(1)の短歌には別伝があり、以下のような若干の違いがある長歌、短歌が掲載されている。

(2) …… うつそみと 思ひし時に たづさわり 我が二人見し
出で立ちの 百枝槻(ももえつき)の木 こちごちに
枝させるごと 春の葉の……
(巻二、213)

この長歌に対する短歌――「去年見てし秋の月夜は渡れども相見し妹はいや年離る」(214)

生い茂った枝葉を形容する「百枝」はケヤキに対する褒め言葉としてよく使われる表現。月が照らすが渡るに変わると時間の経過が強調される。

次に、

(3) …… 泊瀬(はつせ)の斎槻(いつき)が下に隠したる妻あかねさし照れる月夜に人見とむかも(巻第十一、2353)

(4) …… 天(あま)飛ぶや軽(かる)の社の斎ひ槻(いはひつき)幾代まであらむ隠り妻そも(巻第十一、2656)

(5) …… 神奈備の 清き御田屋の 垣内田(かきつた)の
池の堤の 百足(ももた)らず 斎槻(ゆつき)の枝に
みづ枝さす……
(巻第十三、3223)

(3)の泊瀬は長谷寺のある初瀬、(4)の軽の社は不明、(5)の神奈備は飛鳥の神奈備山とされるが、各地で槻が神木となっていること、人が触れることができないほど厳重に禁忌が守られた神聖な木だったことがうかがえる(斎ふ、は神聖なものとして祀る意味)。(3)では槻=月の呼応が明らか。

(6)(挽歌) …… 望月の たたはしけむと 我(あ)が思ふ
皇子(みこ)の命は 春去れば
植槻(うえつき)が上の 遠つ人
松の下道(したぢ)ゆ 登らして
国見遊ばし……
(巻第十三、3324)

この(6)は、名が判明していない皇子の死に際しての挽歌だが、植槻は神聖なケヤキを植えた意味か。満月のように成長してほしかった皇子が哀悼されている。

以上が歌に詠まれた槻だが、これだけでも「特別視された」というだけでは聖なる槻の実像が隠されてしまうことが理解されるだろう。

最後に、詞書で

(7)「三月十九日、(大伴)家持の庄の門の槻樹(つきのき)の下に宴飲せし歌二首」(巻第二十、4302)

と紹介されているケヤキがある。まさに宴会の場をケヤキが提供しているわけだが、どうして宴会という晴れの場がケヤキの下でなければならないか、さらに突っ込んで考えてみよう。視野を『古事記』や『日本書紀』に広げてみると、古代人に普遍的だったと思われる月信仰(『萬葉集』には例歌がたくさんある)が国家のイデオロギーでもあった意外な事情が見えてきて、月信仰を語る場合に複雑な問題を投げかけることになるが……。

『古事記』より――

雄略天皇の段で豊楽(とよのあかり)の宴をした話が載るが、その宴は「百枝(ももえ)槻」の下でのことだった。この場で、三重のウネメというミコが、たくさんの枝葉の茂った槻は上の枝が天を覆い、中の枝が東(あずま)を覆い、下の枝が鄙(ひな)を覆う、という歌をうたう。まさにこれは槻が天と「国土」を覆っている形容で、世界(宇宙)の中心である槻によって世界(宇宙)が成り立っているという世界観が明らかにされているといっていい。世界の中心にはある樹木が存在していて、その木によって世界が成り立っているという考えはよほど古い時代に人類が到達した観念だが、たとえばゲルマン人にはトネリコの木イグドラシルというような世界樹の観念があった。ただしトネリコが天地を貫く垂直軸なのに対し、槻の場合は垂直軸も見て取れるが、それよりむしろで空間的な国家的支配構造に重点がある水平軸の感が強い。

槻の木はこのように重要な存在なのだが、故西郷信綱も「喬木である槻の木の下は広くなっており、人びとがつどい宴などをするのに適していたらしい」(『古事記注釈』第八巻、ちくま文庫)とするばかりで、場所を提供する木というレベルの解釈。これでは槻の木は使い道があるごく普通の木になってしまうではないか。

『日本書紀』より――

次に『日本書紀』を見てみよう。

用命天皇(?〜587年)は磐余(いはれ)に宮を作り、これは「池辺双槻宮(いけへのなみつきのみや)」と名付けられている。槻の木が二本並んで立っていたことから付けられたようだ(あるいは槻の木があったからこそ宮が作られたのではないか?)(用明紀即位前年)。

斉明天皇(594〜661年)も多武嶺の「嶺(みね)の上の両(ふた)つの槻の樹の辺(ほとり)に」「観(たかどの)」を作ったが、これは「両槻宮(ふたつきのみや)」と名付けられた(斉明紀二年)。

さらに。大化の改新(645年)は中大兄皇子と中臣鎌子が蘇我入鹿を殺害することで起こったが(いわゆる乙巳 ――いっし―― の変)、二人は法興寺(飛鳥寺)の槻の木の下で蹴鞠(けまり)していたとき中大兄の靴が脱げたのを鎌子がひろって奉ったのが親しくなる出会いだったとされている(皇極紀三年)。

このように、宮殿の名にもとになったり、重大な出会いを槻が見下ろしていたり、その存在が明記されるのは余程のことだろう。斉明の両槻宮は別名「天宮(あまつみや)」といった。「観」とは、中国では道教の寺院を意味することから、この漢字の使用は道教の影響で、天宮の言葉も道教の影響とする解釈があるが、それは否定できないだろう。だが、槻が月であったからこそ、天の月と同じ存在だったからこその天宮だったのではないか(「ひさかたの天照(あまて)る月は神代にか出でかへるらむ年は経につつ」など萬葉集には天と月が呼応する例が多い)。天宮は月の宮だった可能性もある(月宮というイメージが古くから中国にはある)。

飛鳥寺より撮影
飛鳥寺を訪ねた時、寺の方から槻の木があった場所だと
教えられたところ。飛鳥寺より撮影

以上のほかにも槻の木は次の二ヶ所確認できる。

「多禰嶋人(たねのしまびと、種子島とされる)等に飛鳥寺の西の槻の下に饗(あへ)たまふ」(天武紀五年)

「蝦夷(えみし)の男女二百一十三人に飛鳥寺の西の槻の下に饗たまう」(持統紀二年)

飛鳥寺の西の槻の木は法興寺の槻の木と同じだが、種子島は雄略天皇のところで引用した下の枝が覆っていたという「鄙」に当たり、蝦夷は中の枝が覆っていたという「東」に当たることが見てとれよう。

以上のような観点は、私が気付いたぐらいだからすでに先人の誰かが言っていることかもしれない。不勉強で先行する研究を知らないが、古典を素直に読んでみれば気付くのが槻の木の重要さ。ポピュラーなケヤキが時代を超えて再び月の木として親しまれることを願う。

(辛卯 月暦四月十五日=2011年5月17日記)
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