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月と季節の暦
月の名所十二選余話
第五話 山、月を吐く
(静岡市・吐月峰柴屋寺)

月暦(旧暦)「月と季節の暦」五月の編集面は、「山、月を吐く」と題して、静岡市の吐月峰柴屋寺(とげっぽうさいおくじ、臨済宗妙心寺派)を取り上げた。この寺は連歌師宗長(そうちょう)が営んだ草庵がもとになり、彼の死後寺として生まれ変わったもの。月の名所として知る人ぞ知る寺である。

宗長が静岡現島田市で生まれたのは1448年(文安五年)。1532年(享禄五年)まで生きた時代は戦乱の世だった。戦国武将の庇護を受けながら連歌師として各地を渡り歩きつつ、生家に近く旧東海道筋にも近い丸子(まりこ、現静岡市駿河区)に結んでいたのがこの草庵で、柴屋軒と名乗っていた。

柴屋寺入り口

宗長という人物を知るには、彼の残した日記が岩波文庫の『宗長日記』として出版されているので容易にアプローチできる。月に関して興味ある方は色々な情報をこの本から得ることができるが、いま重要なものを二点だけあげてみると、まず二回の名月である十五夜と十三夜が中世の時期にすでに民間の習俗になっていたことを記録しているのは歴史的にみてきわめて重要(原文は、「八月十五夜・九月十三夜は、都鄙(とひ)いづくも月にめであそび、いもまめを手向(たむけ)とて、しづのおしづのめ(賤の男、賤の女)も月みるといふ」)。

夜もすがら(徹夜)の月見というのも同書の訳注などから知ることができるのも有益である。現代の私たちの日常の過ごし方と比べてみてとても考えさせられる月との付き合い方である。「月がゆく袖に関もれ清見がた」の句(宗長の師宗祇──1421−1502年──の句)が収められているが、これは中世に関所があった静岡市清水区の清見潟(現在も清見寺がある)で一晩月見し、明け方に作られた句だとのこと。

月の下で人の付き合いがあり、創作に生かされていた事情が伺われるのだが、日本ばかりでなく中国も事情は同じだった。いや、中国の風流があるいは源流のひとつになっていたのではないか。唐代の白居易(白楽天、772−846年)の詩をたまたま読んでいたら、やはり徹夜をして月見をしたときの詩に出会った。長安の都の道教寺院で仕事の同僚とともに月待ちをし、待っていたと思ったらすぐに出てきた月とともに一晩中楽しんだときの詩で、月の光の下で終夜笑いあい歌いあって疲れるのも知らなかった、という句を含んでいる詩だった(805年月暦夏四月の月夜の作)。

菅原道真や芭蕉の作品にも見られるが、古人と私たちでは時間の過ごし方が本当に違うのである。私自身まだ試みたことがないが、月が渡っていく南を中心にして東西が開けて眺望できる場所が必要だろう。人との語らいも楽しみにいつかやってみたいものである。

*   *   *

白居易とともに日本に大きな影響を与えたやはり唐代の杜甫(712−770年)の詩「月」を暦では取り上げている。その詩に「四更山月を吐き、残夜水楼に明らかなり」という句が含まれ、この句が吐月峰のことばが生まれたゆえんだった。四更とは夜中 3時前後のことだから、下弦以降の月の出を杜甫は見て詠じているわけだが、山でも海でもどこでもいいが、この下弦以降の月が出てくるところをはじめて目にする人はきっとその独特な存在感におどろくにちがいない。何か、異様なものが夜空に突き出してくる感じである。ご覧になったことがない方にお勧めである。

今年の暦には芭蕉らの三夜連続の月見について紹介しているページがあるが、この三夜の月見も杜甫に先例がある。767年(唐の大暦二年)に作られたとされる「八月十五夜月」、「十六夜翫月(がんげつ)」、「十七夜対月」の三つの詩がそれで、仲秋名月から三日間の、円く、明るすぎる月の映えと戦火に追い立てられて流浪する杜甫の望郷の念が詠まれている。

なお、柴屋寺では仲秋名月の日に月見の会が催される(連絡先 054−259−3686)。

(辛卯 月暦五月二十二日=2011年6月23日記)
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