トップへ
月と季節の暦とは
<月>の会
志賀 勝
カレンダー 年賀状
イベントスケジュール
月と季節の暦
-活動の軌跡-
月の秋
「月の秋」のプロジェクトはどのように企画されたか?

正月最初の満月に「暦開きの会」をはじめて2年目。今年は秋にも月の企画をと希望していました。

宮城県や仙台市で月の暦を使っていらっしゃる方はかなりの数にのぼります。月の催しができたらとかねてから願ってきた土地でした。古典文学を教える先生(大和克子さん、松島町)や仙台市の晩翠画廊に是非月の催しをやりませんか、とお話を始めたのは2002年12月。賛同いただいて企画が始動しました。催しの日取りを9月9日(十三夜の日)とし、場所があじさい寺として知られる資福禅寺に決まったのは今年の4月下旬、ちょうど今後の月の催しの予定を朝日新聞に掲載する必要があって秋の月、秋の月、と考えながら、よし、「月の秋」の統一タイトルで東京、仙台の催しを、というイメージができあがりました。

東京の日程は9月7日日曜日。昨年から月暦に理解を示してくださっている実相寺の住職・酒井智章さんに場所の提供方をお願いしました。仙台では十三夜の月を選び、東京では十一夜の月でむしろ曜日を選んだ恰好でした。いずれも、仲秋の名月(9月11日)を前にしたもので、秋全体の人間に親しい月をアピールする目的で計画されたものでした(「月の秋」企画の詳しい位置付けを黒田杏子さん主宰の俳句誌「藍生」10月号に発表しました。入手方法については月と太陽の暦制作室・月の会までお問い合わせ下さい)。

私自身の「月の秋」の活動は、鎌倉・名月院の講演「お盆と月」、長野・原村の「星まつり」での伝統的七夕についての講演からはじまり、東京、仙台、糸魚川を結んだイヴェントを経て、深大寺十三夜をもって終了しました。忙しく、また素晴らしい一秋でした。

ページトップへ

「月の秋・東京」(月暦八月十一日、西暦9月7日)報告

不順な天候の続いた今年、8月から9月にかけてはなかなか月を見ることができない夜々ばかり。月が出るのか心配な日でしたが、幸いときどき雲間から月が顔をのぞかせた「月の秋」の出発でした。

早い月の出に合わせて夕刻からはじめた「月の秋」。会場の実相寺(日蓮宗)には150人ほどの参加者が集まりました。歌手の枝元一代さんの「七夕」と「故郷」の歌から会をはじめました。「七夕」を歌ってもらったのは、月暦七月七日が七夕の本来の日取りであり、七日の月という月を目印とし、秋の開始を告げる行事だったからです。この七夕から「月の秋」がはじまる、そういう思いを込めたオープニングでした。

私の講演は、この七夕や、お盆、二十六夜、仲秋の名月、十三夜と続く七月から九月までの秋期間中の月の風習、歴史を解説したもの。日本列島にはかつて月が育んだ多彩な「月の文化」があり、「月の秋」の企画はその再生の試みだと語りました。

つづいて、薩摩琵琶の岩佐鶴丈さん、能管の松田弘之さんの独奏と「月下の陣」の共演。「月の秋」にふさわしいお二人の演奏に観客は満足してくださったことと思います。

会が終わり、お寺のご好意により同じ場所で交流会を開くことができました。酒井紀久子奥様の手作りの料理をつまみながら、なごやかな交流のひとときを過すことができました。


 △オープニングで歌う枝元一代さん  △講演が終わりました…
 △琵琶と能管のジョイント
ページトップへ

「月の秋・仙台」(月暦八月十三夜、西暦9月9日)報告

9月9日火曜日、平日の夕方にもかかわらず、資福禅寺(臨済宗)に集まった方々は三百数十人、本堂が立錐の余地なく人で埋まりました。当地で有名なホシヤマ珈琲店がこれらたくさんの来会者にコーヒーのサーヴィス。インドでは月が恵む甘露をアムリータ、これを翻訳して中国で甘露といいましたが、まさにこの甘露のような月が恵んだコーヒーサーヴィスに感激のひと駒でした。

渋谷芳崖住職のお話、私の講演「人は月に生かされている」、大和克子先生の「竹取物語」の講演を本堂で行ない、「月のご縁の時間」という名のユニークな休憩時間をはさんで、聴衆は本堂から外に出、篠笛の高藤郁子さん、生田流筝曲の西川裕子さんらの演奏を楽しみました。

バックに竹林が広がる空間、そして何よりも東の空から卵色のお月さんが上がってくるではないですか。人生の奇跡といっても過言でなかったのは、この日6万年ぶりに地球に大接近した火星が、これまた月と大接近し、二星のランデブーが私たちを祝ってくれたことです。

仙台は今年は晴が極端に少ない不運の年でしたが、この夜、空は見事に晴れ、月や宇宙とともにある私たちの幸せをかみしめた一夜でした。終わりに、「月の砂漠」と「荒城の月」をみんなで合唱、主催者の一員であった私も、込み上げてくるものにいかんともできませんでした。

お寺の皆さん、ホシヤマ珈琲の皆さん、実行委の古典文学の山木さん、大場さん、晩翠画廊の安藤さん、ありがとうございました。来年もどうぞ月の催しを。そして、「月の仙台」の文化をお作りください。催し終了後の打ち上げの交流会で、「西暦はスケジュールという感じ、月の暦は自然の暦」と語った農家の三田さんの言葉が鮮やかに心に残っています。翌日私は、「月の彫刻」を制作している小関さんに案内され、丸森町の大蔵山を訪ねました。芸術家たちが作ったストーンサークルがあり、大空の下これを舞台にしたらどんなに素晴らしいかと心弾みました。大蔵山で月の催しができればと願いました。


 △資福禅寺本堂はびっしり人で埋まった  △竹林をバックに演奏と月を楽しむ
 △葉月十三夜、大接近した月と火星
ページトップへ

新潟県糸魚川市で
「月の秋in西海」、「月の秋in糸魚川」
(西暦9月20,21日)開催

古民家を生かそうという動きが全国で盛んになっていますが、糸魚川市でも古民家を文化活動に役立てようと昨年から活動を始めた方がいます。倉又さんがその人ですが、今回私を呼んで講演を企画してくださいました。ありがたいことに、「月の秋in西海」という名称を冠してくださったので、「月の秋」行事の一環と位置付けることができることになりました。

古民家の再生した名前は「仁兵衛書林」。ここに近在の方々、遠くは新潟市の方を含め60名ほどが集まり、熱心に私の月の話に耳を傾けてくれました。この古民家の主幹として実際の文化事業を担っていらっしゃるのは蛭子(えびす)健治先生。糸魚川市における歴史研究の重鎮です。かつての伝統的行事は月のリズムで行なわれていたといった私の話を聞かれた後、その蛭子さんが自分たちは「実にでたらめな行事をやってきたんだな」と述懐された言葉がとても、とても感慨深く、印象的でした。その後、「従来の季節季節の行事の虚偽性を月暦に照らして明快に知ることができましたこと、月を仰ぎ月の運行を知ることがより豊かな生活を誘うであろうことなど、考えさせられること多く」云々というお便りもいただきました。

翌21日、糸魚川公民館と蛭子先生も属する糸西郷土研究会主催の「月の秋in糸魚川」が同公民館で開かれました。歴史研究者が多いということもあって、私の講演タイトルは「月暦の現代的意義」と固いものでしたが、前日「月の時間」の意味や伝統的行事について話したので、この日は芭蕉や仏教を素材に「月の文化」を中心に話しました。

話を聞いたTさんのメールを紹介します。

「先日の糸魚川での講演、大変感動し、また、ショックを受けましたが、これからの私の人生に、大きな影響がでるような気がしています。心の中に抱えていた、もやもやとしたものが、これから晴れていきそうな予感がするのです。また、豊かな日本語を、再確認できると思います(注 月に関係するさまざまな日本語を取り上げました)。」

糸魚川市の人口は3万人とのこと。20,21日の講演会はそれぞれ数十人の方々でしたが、やがて「月の糸魚川」の文化が花開くことを確認できた熱い二日間でした。


 △「月の秋in西海」(9月20日、仁兵衛書林にて)
 △「月の秋in糸魚川」(9月21日、糸魚川公民館にて)
ページトップへ

第五回深大寺十三夜(月暦九月十三日、西暦10月8日)と
月の会交流会

十三夜の月を「深大寺十三夜」ははずしたことがありません。今年もまた、なつかしいあのお月様が帰ってきました。

谷玄昭住職をはじめとした僧職の方々の「天台声明」の響き、薩摩琵琶(岩佐鶴丈さん)・能管(松田弘之さん)の独奏とジョイント演奏があり、その間に私は「月の講話」を話しました。

かつて日本では十三夜の風習が盛んだったこと、そのような「月の文化」華やかな土台の上に樋口一葉の「十三夜」のような小説が書かれたが、月の時間を失うとともに十三夜の文化は丸ごとこの列島から消えてなくなってしまった、というような話がその一部でした。「深大寺十三夜」のような月の文化再興の動きが実っていけば、「やがて第二、第三の樋口一葉が現れるでしょう」などと結語を締めくくるつもりでしたがすっかり失念。バカですねえ、笑ってください。

この月見には「月の会」関係者も30人を越える人々が集まり、催しが終わってから蕎麦屋「門前」特製の十三夜蕎麦を味わいました。その後、深大寺からごく近い「月の会」メンバーの田上さん宅で交流会(その前に「沈黙散策」と称して月見散歩があり、みんなご満悦、しかし私は「十三夜の会」の会合のため参加できず残念)、月が結ぶ出会いは夜遅くまで(徹夜組も)続きました。

月暦でいう「秋七月」がはじまったのは8月1日。伝統的季節感で秋のはじまりを告げるこの日、私は鎌倉の名月院で講演し、同じ日長野の原村に駆けつけて「星まつり」でも講演しました。「月の秋」がはじまりました。そしてこの「深大寺十三夜」を末尾にして、「月の秋」は幕を閉じました。胸に温め、心から成功を祈った一連の行事でした。月の文化再生のためのひと秋のムーヴメント。さまざまな波紋を残した秋でした。新しい「月の文化」の種をせっせと植えるのに努めたつもりですが…


 △深大寺の会はいつも十三夜の月を拝むことができる。右は田上さん宅での交流会。
ページトップへ

群馬県・月夜野「玉泉寺」に寄せたメッセージ 

今年は実は月夜野の十三夜観月会に招かれ、講演の予定でしたが、深大寺の十三夜をはずせなかったため、以下のようなメッセージを寄せてお詫びしました。


記念すべき第十回「十三夜お月見の夕べ」、おめでとうございます
―月と太陽の暦制作室・月の会  志賀 勝―

月夜野・玉泉寺の名前は、「十三夜」という月をこよなく愛してきた日本列島の人々の営みを復活させた場所として全国に鳴り響いています。

この百年間、かつては家庭で、地域で、お月様は機会あるごとにごく当たり前に祝われていたものでした。この貴重な風習は途絶え、月の文化と言ってもいい伝統はいわば根絶やしの状態になっていました。だから玉泉寺が十三夜を復活させたことの重要さは、百万回繰り返し言っても言い過ぎではない、月の文化をよみがえらせる偉業でした。

先日、仙台で「月の秋・仙台」という催しを行ないました。350人もの人々が集まり、ちょうど一ヶ月前の十三夜の月と、折からの火星・月大接近の素晴らしい一夜を堪能しました。この仙台の催しは初めて開かれたものでした。月夜野における月の行事の精神をリレーしたものでした。仙台で集まった皆さんに、九月十三夜には月夜野でこれこれの月の催しがあると私は伝えました。

仲秋の名月を祝う行事は今日では全国的な行事になり、月のリズムで行なう伝統的な七夕も復活し始めました。来年にはさらに、さらに多くの月の催しを私たちは目にすることになるにちがいありません。

私たちを育む月の力に今や多くの人々が気づくようになっています。出産という赤ん坊の誕生から、農業や漁業、そして芸術活動に至るまで、月が太陽とともに人々に最も身近な自然であることに目覚めつつある、それが今日の状況と言えるのですから。

今日、長月十三夜の夜、現在までのところ全国に二つしかない十三夜の行事の一つである東京の深大寺における「十三夜観月会」で私は講演しています。月は古い、古い時代から、遠くに離れた人々をつないでくれる有難い存在でした。坂西良光ご住職をはじめ皆様のことを思いながら、深大寺で月の話をするつもりです。お招きいただいていたのに、深大寺の実行委員会の一員として今回は抜けることができず、皆様の前で直接お話できなかったことをお詫び致します。お月様に心からの感謝を捧げ、ともに月の夜を楽しみたいと思います。


2003年10月8日
ページトップへ
≪ 前へ 次へ ≫
<月>の会トップへ
Copyright(C) 2003  月と太陽の暦制作室  志賀 勝